レーニン
フクロウ先生レーニンは、革命を守るためなら考えを大きく切りかえる政治家だった。領土を失ってもドイツと講和したこと、戦時共産主義から新経済政策へ移ったことに注目しよう。
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- 1870年に生まれ、学生のころから革命運動に加わった。1903年には、社会主義をめざすロシア社会民主労働党の中で、ボリシェヴィキとよばれる派を率いるようになる。
- 1917年の革命で皇帝が退位すると、スイスから帰国する。臨時政府を支持せずソヴィエトに権力を移す方針(四月テーゼ)を示し、同じ年の十月革命(新しいタブで開きます)を指導した。
- 新しい政府の議長として、1918年にドイツと講和を結んで戦争をやめる。1921年には新経済政策を始め、1922年のソ連の成立ののち、1924年に亡くなった。
- いつ
- 1870〜1924年(新しい政府の議長は1917年から)
- どこ
- ロシア(シンビルスク生まれ。スイスなどで亡命生活を送り、ペトログラード・モスクワで活動した)
- 誰
- ウラジーミル・レーニン(本名ウリヤーノフ)
- 何
- ボリシェヴィキを率いて十月革命を成功させ、社会主義の政権を指導した
詳しく
背景
レーニンは1870年、ヴォルガ川のほとりの町シンビルスクで、教育者の家に生まれた。本名はウリヤーノフという。17歳のとき、兄が皇帝の暗殺を計画した罪で処刑され、大きな衝撃を受ける。大学に入ると学生運動に加わって退学させられ、やがてマルクス主義を学んだ。マルクス主義とは、労働者の力で資本主義の社会を変え、社会主義へ進むと説く考えである。1895年に逮捕され、1897年にシベリアへ流された。1900年からは国外で活動する。1903年、ロシア社会民主労働党が2つに分かれた。党大会の採決で多数をとったレーニンの派は、「多数派」を意味するボリシェヴィキの名でよばれる。
流れ
1914年に第一次世界大戦(新しいタブで開きます)が始まると、レーニンはスイスに移った。ヨーロッパの多くの社会主義の政党が自分の国の戦争を支持すると、レーニンはこれを強く批判する。1916年には『帝国主義(新しいタブで開きます)論』を書き、この戦争は列強(力の強い国々)が世界を分け直そうとする戦争だと論じた。
1917年3月(ロシアの暦で2月)、ロシア二月革命で皇帝ニコライ2世が退位した。退位のあと、議会の政治家たちが臨時政府をつくった。レーニンたちはスイスを出発し、ドイツ国内を通ることを認められた列車で、4月に首都ペトログラードへもどる。この列車を封印列車という。ドイツは、革命家が帰国すればロシアとの戦争に有利になると考えたのである。帰国したレーニンは、革命の方針である四月テーゼを発表した。臨時政府を支持せず、すべての権力を、労働者や兵士の代表の会議であるソヴィエトに移すよう訴えたのである。
11月(ロシアの暦で10月)、レーニンの指導でボリシェヴィキは武器を持って立ち上がり、臨時政府を倒した。これが十月革命である。レーニンは新しい政府(人民委員会議)の議長となり、世界で初めての社会主義の政権を率いる。1918年3月には、大きな領土を失うことを受け入れて、ドイツとブレスト・リトフスク条約を結んだ。革命を守るには、まず戦争をやめて国を立て直す時間をつくる必要があると考えたからである。
結果
革命に反対する勢力との内戦と、外国の軍隊による干渉が本格化した。政府は工業を国のものにし、農民から食料を取りたてる戦時共産主義を進める。1919年には、各国の共産党を指導するコミンテルンを結成する。
内戦も重なって生産は落ちこみ、農民の不満が高まった。1921年、レーニンは新経済政策に切りかえる。ネップともよばれるこの政策は、税を納めたあとの作物を農民が自由に売ることを認めた。1922年には、世界初の社会主義の国であるソ連が成立した。レーニンは同じ年から病に倒れ、1924年に亡くなった。
主な出来事
- シンビルスクに生まれる
- 兄が処刑される。カザン大学に入るが、学生運動で退学となる
- シベリアへ流される
- 国外で新聞『イスクラ』をつくる
- ロシア社会民主労働党が分かれ、ボリシェヴィキを率いる
- 『帝国主義論』を書く
- 封印列車で帰国し、四月テーゼを発表する
- 十月革命で臨時政府を倒し、人民委員会議の議長となる
- ドイツとブレスト・リトフスク条約を結ぶ
- コミンテルンをつくる
- 新経済政策(ネップ)に切りかえる
- ソヴィエト社会主義共和国連邦が成立する
- 亡くなる
確認問題
確認問題(解答用紙)
スマホやタブレットで読み取ると、この問題をその場で解けます。
https://manazoo.com/history/lenin/?from=print#quiz
1903年にロシア社会民主労働党が2つに分かれたとき、レーニンが率いた派を何というか。
- ◯ メンシェヴィキ
- ◯ ナロードニキ
- ◯ ボリシェヴィキ
- ◯ ジャコバン派
正解:ボリシェヴィキ
1903年、ロシア社会民主労働党が2つに分かれた。党大会の採決で多数をとったレーニンの派はボリシェヴィキ(多数派)、対立した派はメンシェヴィキ(少数派)とよばれた。1917年4月に帰国したレーニンが発表し、すべての権力をソヴィエトに移すよう訴えた方針を何というか。
- ◯ 平和に関する布告
- ◯ 共産党宣言
- ◯ 四月テーゼ
- ◯ 十四か条
正解:四月テーゼ
帰国したレーニンは四月テーゼを発表し、臨時政府を支持しない立場をとった。そして、すべての権力をソヴィエト(労働者や兵士の代表の会議)に移すよう訴えた。レーニンが1918年3月に、大きな領土を失うことを受け入れてドイツと講和したのはなぜか。
- ◯ アメリカの参戦を止めようと考えたから
- ◯ ドイツと同盟を結び、イギリスと戦おうと考えたから
- ◯ ドイツから植民地をゆずり受けようと考えたから
- ◯ 革命を守るため、戦争をやめて国を立て直す時間が必要だと考えたから
正解:革命を守るため、戦争をやめて国を立て直す時間が必要だと考えたから
レーニンは、革命を守るには、まず戦争をやめて国を立て直す時間をつくる必要があると考えた。そのため、大きな領土を失ってでもドイツとブレスト・リトフスク条約を結んだ。1921年にレーニンが始めた政策で、農民が税を納めたあとの作物を自由に売ることなどを認めたものを何というか。
- ◯ 新経済政策(ネップ)
- ◯ 五か年計画
- ◯ 農奴解放令
- ◯ 大陸封鎖令
正解:新経済政策(ネップ)
内戦や戦時共産主義の影響で経済が荒れ、食料の取りたてに対する農民の不満も高まった。そこでレーニンは1921年、作物の自由な販売などを認める新経済政策(ネップ)に切りかえた。
単元のポイント
- マルクス主義 マルクスとエンゲルスが打ち立てた考え。労働者の力で、資本家が工場などを持つ資本主義の社会を変え、社会主義へ進むと説く
- ボリシェヴィキ 1903年にロシア社会民主労働党が2つに分かれたとき、レーニンが率いた派。党大会の採決で多数をとったので、「多数派」という意味の名でよばれた
- 『帝国主義論』 レーニンが1916年に書いた本。帝国主義を資本主義の最後の段階ととらえ、大戦を力の強い国々(列強)が世界を分け直す戦争と考えた
- 封印列車 1917年4月、レーニンたちがスイスからドイツを通ってロシアへ帰るときに乗った列車。ドイツ市民と接触しないことが条件だった
- 四月テーゼ 1917年4月、帰国したレーニンが示した方針。革命のあとにできた臨時政府を支持せず、すべての権力を労働者や兵士の代表の会議(ソヴィエト)に移すと訴えた
- 戦時共産主義 内戦と外国の干渉に対抗するため、工業を国のものとし、農民から食料を取りたてた政策
- 新経済政策(ネップ) 1921年に始めた政策。農民が税を納めたあとの作物を自由に売ることや、小さな商売を認めた
- ソ連 ソヴィエト社会主義共和国連邦の略。1922年に成立した、世界で初めての社会主義の国