ピューリタン革命
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- 17世紀のイギリスで、国王チャールズ1世と議会の対立が深まり、1642年に内乱へ進んだ革命。
- 議会派のクロムウェルが国王軍を破り、1649年に国王は処刑されて共和政となった。
- クロムウェルは護国卿として独裁を行ったが、死後の1660年に王政復古となった。
詳しく
背景
17世紀のイギリスでは、国王が議会の同意なしに税を取り立て、議会と対立していた。1628年、議会は国王チャールズ1世に「権利の請願」を出し、勝手な税の取り立てや理由のない逮捕をやめるよう求めた。しかし国王は翌年議会を解散し、11年間、議会を開かずに国を治めた。1640年、スコットランドとの戦いの費用に困った国王が議会を開くと、対立はさらに深まる。
1642年、国王派と議会派の間で内乱が始まる。議会派には、国の教会(イギリス国教会)をもっと改革すべきだと考えるピューリタン(清教徒)が多かった。
流れ
内乱は、はじめ国王軍が有利だった。議会派のクロムウェルは、熱心なピューリタンを集めた騎兵隊(鉄騎隊)を率いて活躍した。議会は軍を、ニューモデル軍とよばれる新しい軍隊につくりかえる。1645年のネーズビーの戦いで議会軍が勝ち、国王はやがて捕らえられた。
議会派のなかでは、考えの違うグループどうしの争いが強まっていた。1648年に再び内乱が起こると、これに勝ったクロムウェルらの独立派が、長老派の議員を議会から追い出す。1649年1月、国王チャールズ1世は処刑された。イングランドでは王政が廃止され、国王のいない共和政となったのである。
結果
共和政のもとで、クロムウェルはアイルランドやスコットランドに軍を送った。1653年には議会を武力で解散し、国を治める一生続く地位である護国卿について独裁を行う。軍隊の力にたよった政治は、人々の反発を強めた。1658年にクロムウェルが亡くなると、政治は混乱する。1660年、処刑された国王の子チャールズ2世が帰国し、王政がもどった(王政復古)。国王と議会の争いは、このあとの名誉革命(新しいタブで開きます)へと続いていく。
確認問題
確認問題(解答用紙)
スマホやタブレットで読み取ると、この問題をその場で解けます。
https://manazoo.com/history/puritan-revolution/?from=print#quiz
ピューリタン革命のなかで、1649年に処刑されたイギリスの国王は?
- ◯ チャールズ2世
- ◯ チャールズ1世
- ◯ ルイ16世
- ◯ ジェームズ2世
正解:チャールズ1世
議会派との内乱に敗れたチャールズ1世は、1649年1月に処刑された。チャールズ2世はその子で、1660年の王政復古で国王となった。議会派の軍人として国王軍を破り、のちに護国卿となって独裁を行った人物は?
- ◯ エリザベス1世
- ◯ ジェームズ2世
- ◯ クロムウェル
- ◯ ウィリアム3世
正解:クロムウェル
クロムウェルは騎兵隊を率いて活躍し、新しくつくられた議会軍の中で国王軍を破った。1653年には護国卿という一生続く地位につき、軍隊の力にたよって国を治めた。1660年、チャールズ2世が国王として帰国し、王政がもどったことを何というか?
- ◯ 王政復古
- ◯ 権利の章典
- ◯ 名誉革命
- ◯ 七月革命
正解:王政復古
クロムウェルが亡くなったあと政治が混乱し、1660年にチャールズ2世が帰国して王政がもどった。これを王政復古という。名誉革命(新しいタブで開きます)は、1688〜89年に議会が別の国王を迎えた出来事である。
単元のポイント
- ピューリタン イギリス国教会の改革は不十分だと考え、さらに徹底した改革を求めたプロテスタントの人々。清教徒ともいう
- クロムウェル 議会派の軍人・政治家。騎兵隊を率いて国王軍を破るのに活躍し、のちに護国卿となって独裁を行った
- 王政復古 1660年、チャールズ2世が国王としてもどり、王政が復活したこと