ヴァレンヌ逃亡事件
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- 1791年6月、国王ルイ16世(新しいタブで開きます)の一家が国外へ逃げようとして、ヴァレンヌで止められた事件。
- 国王への信頼は大きく失われ、国王を置かない共和政にしようという声が強まった。
- 8月、王妃の兄の神聖ローマ皇帝とプロイセン王が、フランス国王を守るピルニッツ宣言を出した。
詳しく
背景
1789年にフランス革命(新しいタブで開きます)が始まると、国王ルイ16世の一家は10月にヴェルサイユからパリへ移された。そこでは、民衆の目が届くところで暮らすことになる。議会では、国王を残したまま、憲法で国王の力をしばる立憲君主政(新しいタブで開きます)をめざす人々が中心であった。しかし国王は革命を受け入れきれず、外国の助けを求めて、国外へ逃げる計画を立てる。
流れ
1791年6月20日の深夜、国王一家は変装してパリのテュイルリー宮殿を抜け出した。王妃マリー・アントワネット(新しいタブで開きます)も一緒であった。ところが翌21日の夜、一家はフランス東部の国境に近い小さな村ヴァレンヌで見つかり、行く手を止められる。一家はパリへ連れ戻された。
7月17日には、国王をやめさせるよう求める署名を集めていた人々に、市民でつくる軍隊である国民衛兵が発砲した(シャン・ド・マルスの虐殺)。同じころ、立憲君主政を守ろうとする人々はジャコバン=クラブ(新しいタブで開きます)を離れ、フイヤン派をつくっている。
結果
ヴァレンヌ逃亡事件で、国民の国王への信頼は大きく失われた。国王をやめさせて、国王を置かない共和政にしようという声も強まる。
8月、王妃の兄である神聖ローマ皇帝レオポルト2世とプロイセン王が、フランス国王を守る立場を示すピルニッツ宣言を出す。これは、1792年に始まるフランスと周りの国々との戦争(革命戦争)のきっかけの一つとなった。9月には、立憲君主政を定めた1791年憲法が成立している。
確認問題
確認問題(解答用紙)
スマホやタブレットで読み取ると、この問題をその場で解けます。
https://manazoo.com/history/flight-to-varennes/?from=print#quiz
1791年6月、家族とともに国外へ逃げようとして、ヴァレンヌで止められたフランス国王は?
- ◯ ルイ14世
- ◯ ルイ16世
- ◯ ルイ18世
- ◯ シャルル10世
正解:ルイ16世
ルイ16世(新しいタブで開きます)の一家は変装してパリを抜け出したが、国境に近いヴァレンヌで見つかって連れ戻された。ヴァレンヌ逃亡事件のあと、フランスの人々の間で強まった主張は?
- ◯ 三部会をもう一度開く
- ◯ 国王をやめさせて共和政にする
- ◯ 国王の力を今より強める
- ◯ ナポレオンを皇帝にする
正解:国王をやめさせて共和政にする
国王が国外へ逃げようとしたことで、国民の国王への信頼は大きく失われた。国王をやめさせ、国王を置かない共和政にしようという声が強まった。1791年8月、神聖ローマ皇帝レオポルト2世とプロイセン王が、フランス国王を守る立場を示して出した宣言は?
- ◯ 独立宣言
- ◯ 権利の章典
- ◯ 人権宣言
- ◯ ピルニッツ宣言
正解:ピルニッツ宣言
王妃マリー・アントワネット(新しいタブで開きます)の兄で神聖ローマ皇帝のレオポルト2世は、プロイセン王とともにピルニッツ宣言を出した。この宣言は、1792年に始まるフランスと周りの国々との戦争(革命戦争)のきっかけの一つとなった。
単元のポイント
- シャン・ド・マルスの虐殺 1791年7月17日、パリのシャン・ド・マルス広場で起きた事件。国王をやめさせるよう求める署名を集めていた人々に、市民でつくる軍隊の国民衛兵が発砲し、約50人が亡くなった。国民衛兵を率いていたのはラ・ファイエットである
- ピルニッツ宣言 1791年8月、神聖ローマ皇帝レオポルト2世とプロイセン王が出した共同の宣言。フランス国王の立場を元にもどすよう求め、フランスの人々を強く刺激した
- フイヤン派 ヴァレンヌ逃亡事件のあと、立憲君主政を守ろうとして、革命を進める人々の集まりであるジャコバン=クラブから分かれた人々。1791年7月にフイヤン・クラブをつくった