フランス革命
フクロウ先生きっかけは国の借金。だれが税を払うのかという話から入ると、流れがつかみやすい。
30秒でつかむ
- 国の財政が行き詰まり、改革をめぐって国王と特権身分が対立するなか、ルイ16世(新しいタブで開きます)は1789年に三部会(新しいタブで開きます)を開いた。
- 第三身分(新しいタブで開きます)の議員が国民議会(新しいタブで開きます)をつくり、バスティーユ牢獄(新しいタブで開きます)の襲撃と各地の農民蜂起によって革命は全国へ広がった。
- 1792年に王政が廃止されて共和政になったが、戦争と内部の対立が続き、1799年にナポレオン(新しいタブで開きます)が実権を握った。
- いつ
- 1789〜1799年
- どこ
- フランス(パリ・ヴェルサイユなど)
- 誰
- ルイ16世・ロベスピエール(新しいタブで開きます)・ナポレオン
- 何
- 絶対王政(新しいタブで開きます)と身分制がくずれ、共和政が生まれた
詳しく
背景
18世紀後半のフランスは、それまでの戦争に加えてアメリカ独立戦争(新しいタブで開きます)にも加わり、深刻な財政難に陥っていた。社会は聖職者(第一身分)・貴族(第二身分)・平民(第三身分)に分かれる。人口の大半を占める第三身分が重い税を負担する一方で、第一・第二身分は多くの税を免除され、負担が軽かった。
国王ルイ16世は財政を立て直すため、特権身分にも税をかけようとしたのである。しかし貴族たちは強く反発し、1614年に開かれたのを最後に170年以上開かれていなかった三部会の招集を求めた。そのころ、社会のしくみを理性で問い直す啓蒙思想(新しいタブで開きます)が広まり、生まれによって権利に差があることへの不満も強まっていたのだ。
流れ
1789年5月、ヴェルサイユで三部会が開かれた。ところが、議決を身分ごとに1票とするか、議員1人に1票とするかで対立が起きた。6月17日、第三身分の議員は自分たちこそ国民の代表だとして国民議会を名のり、20日には憲法ができるまで解散しないと誓う(球戯場の誓い)。
国王がパリ周辺に軍隊を集めると、武力で押さえこまれることを恐れた民衆は、7月14日にバスティーユ牢獄を襲って武器と弾薬を奪った。農民の蜂起も各地で起こり、国民議会は8月に封建的特権の廃止を決め、続いて人権宣言(新しいタブで開きます)を採択した。ただし領主に納める地代の多くは買い取りが条件とされ、無償で廃止されるには1793年まで待たなければならなかったのだ。
1791年6月、国王一家は国外へ逃げようとして連れ戻され(ヴァレンヌ逃亡事件(新しいタブで開きます))、王への信頼は大きく損なわれた。同じ年に立憲君主政(新しいタブで開きます)の憲法が制定されたが、翌1792年にはオーストリアなどとの戦争が始まった。8月、パリの民衆が王宮を襲い、王権は停止される。9月に成立した国民公会(新しいタブで開きます)が王政の廃止を決め、共和政が始まった。1793年1月、ルイ16世は処刑された。
国の内外に敵を抱えるなか、ロベスピエールらジャコバン派(新しいタブで開きます)が権力を握り、公安委員会(新しいタブで開きます)を中心に反対する人々を次々に処刑していく(恐怖政治(新しいタブで開きます))。1794年7月、テルミドール9日のクーデタ(新しいタブで開きます)でロベスピエールは失脚し、処刑された。
結果
1795年に始まった総裁政府(新しいタブで開きます)のもとでも政治は安定しなかった。1799年11月、軍人ナポレオン・ボナパルトがブリュメール18日のクーデタ(新しいタブで開きます)で統領政府(新しいタブで開きます)を立て、実権を握る。フランス革命は、ふつうここまでを指す。
革命によって旧来の身分制は廃止された。人権宣言が掲げた国民主権や法の前の平等(新しいタブで開きます)といった考え方は、その後、ヨーロッパ各国の憲法や国民国家のあり方に大きな影響を与えた。ただし、こうした権利がすぐに全員のものになったわけではない。たとえばフランスの女性が参政権を得たのは1944年だった。
主な出来事
- 三部会が開かれる
- 国民議会の成立
- バスティーユ牢獄襲撃
- 人権宣言の採択
- 1791年憲法
- 王政の廃止・第一共和政
- ルイ16世の処刑
- テルミドール9日のクーデタ(新しいタブで開きます)
- ブリュメール18日のクーデタ(新しいタブで開きます)
確認問題
確認問題(解答用紙)
スマホやタブレットで読み取ると、この問題をその場で解けます。
https://manazoo.com/history/french-revolution/?from=print#quiz
フランス革命のきっかけになった三部会が開かれた年は?
- ◯ 1689年
- ◯ 1789年
- ◯ 1799年
- ◯ 1848年
正解:1789年
同じ1789年の5月に三部会(新しいタブで開きます)、7月にバスティーユ襲撃(新しいタブで開きます)、8月に人権宣言(新しいタブで開きます)。1年の中の順番でまとめて覚える。1789年に人権宣言を採択したのは?
- ◯ 国民議会
- ◯ 国民公会
- ◯ 立法議会
正解:国民議会
人権宣言は1789年8月に国民議会(新しいタブで開きます)が採択した。立法議会は1791年、国民公会(新しいタブで開きます)は1792年にできた議会で、1789年にはまだない。次の出来事を起きた順に並べよう。
- ( )人権宣言
- ( )三部会の開会
- ( )ルイ16世の処刑
- ( )バスティーユ牢獄襲撃
正解:三部会の開会 → バスティーユ牢獄襲撃 → 人権宣言 → ルイ16世の処刑
三部会の開会(1789年5月)→バスティーユ牢獄襲撃(7月)→人権宣言(8月)→ルイ16世(新しいタブで開きます)の処刑(1793年1月)。
単元のポイント
- 三部会(新しいタブで開きます) 身分ごとに1票か、議員1人に1票かで対立した
- 国民議会(新しいタブで開きます) 1789年6月、第三身分の議員が名のった
- バスティーユ牢獄襲撃(新しいタブで開きます) 1789年7月14日。革命が広がる転機の一つ
- 人権宣言(新しいタブで開きます) 1789年8月、国民議会が採択した
- ロベスピエール(新しいタブで開きます) ジャコバン派の指導者。恐怖政治を進め、1794年に失脚した