ギリシア独立戦争
フクロウ先生ウィーン体制は各地の独立運動をおさえこもうとしていた。それなのに、なぜギリシアの独立は認められたのだろう。列強それぞれの思惑に注目しよう。
30秒でつかむ
- 15世紀からオスマン帝国の支配を受けていたギリシアで、1821年に独立を求める蜂起が起こった。
- オスマン帝国はエジプトの力を借りて反乱をおさえようとしたが、1827年のナヴァリノの海戦で、イギリス・フランス・ロシアの連合艦隊がオスマン帝国とエジプトの艦隊を破った。
- 1829年のアドリアノープル条約を経て、1830年のロンドン会議で独立が国際的に認められた。ウィーン体制(新しいタブで開きます)の一角がくずれた出来事である。
- いつ
- 1821〜29年(独立の国際的な承認は1830年)
- どこ
- ギリシア(ペロポネソス半島など)・エーゲ海
- 誰
- イプシランディス・イブラーヒーム・パシャ・バイロン
- 何
- オスマン帝国からの独立をめざして戦い、1830年に独立が国際的に認められた
詳しく
背景
15世紀から、ギリシアはオスマン帝国の支配を受けていた。18世紀の終わりごろになると、フランス革命(新しいタブで開きます)の影響を受けたギリシア人の知識人たちが、民族の独立を説くようになる。1814年には黒海沿岸のオデッサで、秘密結社フィリキ・エテリア(友愛会)が結成された。結社は武装蜂起の準備を進めていく。
一方、ナポレオン(新しいタブで開きます)戦争のあとのヨーロッパはウィーン体制のもとにあり、大国は各地の自由主義(新しいタブで開きます)や民族の運動をおさえこもうとしていた。そのため列強ははじめ、ギリシアの反乱への介入を控えていたのである。
流れ
1821年3月、結社の指導者イプシランディスがモルダヴィアとワラキアに兵を進め、ギリシア独立戦争が始まった。挙兵は失敗したが、蜂起はペロポネソス半島からギリシアの各地へ広がっていく。1822年、ギリシア人は国民会議を開いて独立を宣言した。
オスマン帝国は報復として住民を殺害し、キオス島でも多くの人々が犠牲になっている。ところがギリシア側では内部の対立から内戦が起こり、1825年にはオスマン帝国の求めに応じたエジプトの軍が上陸した。
ヨーロッパでは、古代ギリシアの文化にあこがれる人々が、ギリシアを支援した(親ギリシア主義)。イギリスの詩人バイロンは独立運動を支えるためギリシアに渡り、1824年にミソロンギで病死する。フランスの画家ドラクロワは、キオス島の虐殺を題材にした絵を1824年に描き、オスマン帝国軍の残虐な行いを訴えた。やがてロシアが南下政策の立場からギリシアの支援に傾くと、ロシアの勢力拡大を警戒したことなどから、イギリスもフランスとともに介入に加わった。
結果
1827年10月、イギリス・フランス・ロシアの連合艦隊は、ナヴァリノの海戦でオスマン帝国とエジプトの艦隊を破った。さらにロシアとの戦争(1828〜29年)にも敗れたオスマン帝国は、1829年のアドリアノープル条約でギリシアの自治を認める。1830年のロンドン会議で、ギリシアの独立は国際的に承認された。ウィーン体制のもとで、民族の独立を列強が認めたのである。これによってウィーン体制の一角がくずれた。1832年には列強が選んだ国王を迎えることが決まり、国境も定まった。
主な出来事
- フィリキ・エテリアがオデッサで結成される
- イプシランディスが挙兵し、独立戦争が始まる
- 国民会議が独立を宣言する
- バイロンがミソロンギで病死する
- エジプト軍がギリシアに上陸する
- ナヴァリノの海戦
- アドリアノープル条約
- ロンドン会議で独立が認められる
確認問題
確認問題(解答用紙)
スマホやタブレットで読み取ると、この問題をその場で解けます。
https://manazoo.com/history/greek-war-of-independence/?from=print#quiz
1827年、イギリス・フランス・ロシアの連合艦隊が、オスマン帝国とエジプトの艦隊を破った戦いは?
- ◯ ナヴァリノの海戦
- ◯ トラファルガーの海戦
- ◯ シノープの海戦
- ◯ レパントの海戦
正解:ナヴァリノの海戦
ナヴァリノの海戦の勝利で、ギリシア独立の見通しが開けた。トラファルガーの海戦は1805年、シノープの海戦は1853年(クリミア戦争(新しいタブで開きます))、レパントの海戦は1571年の戦いである。ギリシア独立戦争で、ギリシアの側に立って介入した国の組み合わせは?
- ◯ オーストリア・プロイセン・スペイン
- ◯ イギリス・フランス・ロシア
- ◯ プロイセン・スウェーデン・デンマーク
- ◯ オーストリア・エジプト・スペイン
正解:イギリス・フランス・ロシア
ロシアがギリシアの支援に傾くと、ロシアの勢力拡大を警戒したことなどから、イギリスもフランスとともに介入した。エジプトはオスマン帝国の側で戦った。ギリシアの独立運動を支えるためにギリシアに渡り、1824年にミソロンギで病死したイギリスの詩人は?
- ◯ シェークスピア
- ◯ ミルトン
- ◯ バイロン
- ◯ ワーズワース
正解:バイロン
バイロンは親ギリシア主義の代表的な人物で、1823年にギリシアに渡り、翌1824年にミソロンギで病死した。シェークスピアは16〜17世紀の劇作家、ミルトンは17世紀の詩人である。ワーズワースは同じ時代のイギリスの詩人である。次の出来事を起きた順に並べよう。
- ( )イプシランディスの挙兵
- ( )ナヴァリノの海戦
- ( )エジプト軍の上陸
- ( )ロンドン会議での独立の承認
正解:イプシランディスの挙兵 → エジプト軍の上陸 → ナヴァリノの海戦 → ロンドン会議での独立の承認
イプシランディスの挙兵(1821年)→エジプト軍の上陸(1825年)→ナヴァリノの海戦(1827年)→ロンドン会議での独立の承認(1830年)。
単元のポイント
- フィリキ・エテリア 1814年に黒海沿岸のオデッサで結成された、ギリシアの独立をめざす秘密結社。友愛会とも訳される
- 親ギリシア主義 古代ギリシアの文化にあこがれ、ギリシアの独立を応援した欧米の風潮。フィルヘレニズムともいう
- ナヴァリノの海戦 1827年、イギリス・フランス・ロシアの連合艦隊が、オスマン帝国とエジプトの艦隊を破った海戦。ナバリノとも書く
- アドリアノープル条約 1829年、ロシアとオスマン帝国のあいだで結ばれた条約。オスマン帝国はこの条約でギリシアの自治を認めた
- ロンドン会議(1830年) イギリス・フランス・ロシアが、ギリシアの独立を国際的に認めた会議。ギリシアの国境が定まったのは1832年である