ナポレオン
フクロウ先生ナポレオンは革命を終わらせた人なのか、革命の成果を広めた人なのか。ナポレオン法典と各地の支配を手がかりに考えてみよう。
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- 1769年にコルシカ島で生まれ、フランス革命(新しいタブで開きます)のなかで砲兵の将校として頭角をあらわした。
- 1799年のブリュメール18日のクーデタ(新しいタブで開きます)で権力を握り、ナポレオン法典(新しいタブで開きます)を公布した1804年に皇帝となった。
- ロシア遠征の失敗と諸国との戦いでの敗北を経て1814年に退位し、1815年のワーテルローの戦いに敗れてセントヘレナ島へ流された。
- いつ
- 1769〜1821年(皇帝の在位は1804〜1814年と1815年)
- どこ
- フランス(コルシカ島・パリ)、ヨーロッパ各地、セントヘレナ島
- 誰
- ナポレオン・ボナパルト(妻のジョゼフィーヌ、のちにマリ=ルイーズ)
- 何
- 軍人として頭角をあらわし、クーデタで権力を握って皇帝となり、ヨーロッパの広い地域を支配したが失脚した
詳しく
背景
ナポレオン・ボナパルトは1769年8月15日、地中海に浮かぶコルシカ島のアジャクシオで、小貴族の家に生まれた。少年時代にフランス本土へ渡り、ブリエンヌの幼年学校とパリの士官学校で学び、1785年に砲兵の少尉となった。1789年にフランス革命が始まると、彼は革命の側に立つ。故郷のコルシカでは独立派の指導者パオリと対立し、1793年には一家でフランス本土へ移り住んだ。同じ年の12月、南フランスの港町トゥーロンを、反革命(新しいタブで開きます)派とそれを助けるイギリス軍などから取り戻す戦いで砲兵を指揮して手柄を立て、准将に昇進している。
流れ
1794年にロベスピエール(新しいタブで開きます)が倒れると、ナポレオンはその一派とみなされ、一時は職を離れた。しかし翌1795年、パリで王党派の反乱が起こると鎮圧を任され、これを抑えて再び重用される。1796年にはイタリア遠征軍の司令官となり、出発の直前にジョゼフィーヌと結婚した。イタリアでオーストリア軍を次々に破ったことで、その人気は高まっていく。1798年にはイギリスに打撃を与えるためエジプト遠征に向かったが、翌年、本隊を残して帰国した。
1799年11月、ナポレオンはブリュメール18日のクーデタで総裁政府(新しいタブで開きます)を倒し、統領政府(新しいタブで開きます)を開いた。12月に定められた新しい憲法のもとで第一統領となり、権力を握る。第一統領としてフランス銀行を設立し、教育制度を整え、ローマ教皇と宗教協約(コンコルダート)を結んでいる。1804年3月に、のちにナポレオン法典と呼ばれるフランス民法典を公布すると、同じ年に皇帝となり、12月に戴冠式を行った。
皇帝ナポレオンは、1805年のアウステルリッツの戦いでオーストリア・ロシアの連合軍を破り、1806年には大陸封鎖令を出して、支配下や同盟下にあった大陸の国々に、イギリスとの貿易を禁じた。親族や部下の将軍を、支配下においた国々の王にすえていく。1809年末にジョゼフィーヌとの結婚を解消し、1810年にオーストリアの皇女マリ=ルイーズと結婚した。このころ、ナポレオンの帝国は全盛期を迎える。
結果
しかし、1808年からスペインでは人々がフランスの支配に抵抗し、1812年のロシア遠征も失敗に終わった。1813年のライプツィヒの戦いに敗れ、翌1814年に退位してエルバ島へ流された。1815年2月に島を抜け出し、3月にフランスへ上陸して皇帝に戻ったものの、6月のワーテルローの戦いに敗れる。この短い支配は百日天下と呼ばれる。最後はセントヘレナ島に流され、1821年5月5日にその地で亡くなった。
ナポレオンの支配は長く続かなかったが、ナポレオン法典は世界の多くの国の民法に大きな影響を与えた。
主な出来事
- コルシカ島のアジャクシオに生まれる
- 砲兵の少尉となる
- トゥーロンの戦いで手柄を立て、准将に昇進する
- イタリア遠征軍の司令官となる。ジョゼフィーヌと結婚
- エジプト遠征に向かう
- ブリュメール18日のクーデタで総裁政府を倒す
- 新しい憲法のもとで第一統領となる
- フランス民法典(ナポレオン法典)を公布する
- 皇帝として戴冠式を行う
- アウステルリッツの戦いで勝つ
- 大陸封鎖令を出す
- マリ=ルイーズと結婚する
- ロシア遠征に失敗する
- 退位してエルバ島へ流される
- ワーテルローの戦いに敗れる
- セントヘレナ島で亡くなる
確認問題
確認問題(解答用紙)
スマホやタブレットで読み取ると、この問題をその場で解けます。
https://manazoo.com/history/napoleon/?from=print#quiz
ナポレオンが生まれた島はどこか。
- ◯ シチリア島
- ◯ エルバ島
- ◯ セントヘレナ島
- ◯ コルシカ島
正解:コルシカ島
ナポレオンは1769年、地中海にあるコルシカ島のアジャクシオで生まれた。エルバ島は1814年に退位して流された島、セントヘレナ島は最後に流されて亡くなった島である。1799年11月、ナポレオンが総裁政府を倒して権力を握ったできごとを何というか。
- ◯ 球戯場の誓い
- ◯ テルミドール9日のクーデタ
- ◯ 八月十日事件
- ◯ ブリュメール18日のクーデタ
正解:ブリュメール18日のクーデタ
ナポレオンはブリュメール18日のクーデタ(新しいタブで開きます)で総裁政府(新しいタブで開きます)を倒して統領政府(新しいタブで開きます)を開き、その第一統領となった。テルミドール9日のクーデタ(新しいタブで開きます)は、1794年にロベスピエール(新しいタブで開きます)が倒されたできごとである。1810年、ナポレオンがジョゼフィーヌとの離婚後に結婚した、オーストリアの皇女は誰か。
- ◯ マリー・アントワネット
- ◯ マリア=テレジア
- ◯ マリ=ルイーズ
- ◯ エカチェリーナ2世
正解:マリ=ルイーズ
ナポレオンは1810年、オーストリアの皇女マリ=ルイーズと結婚した。マリー・アントワネット(新しいタブで開きます)はルイ16世(新しいタブで開きます)の王妃、マリア=テレジアはマリー・アントワネットの母である。1815年、エルバ島を抜け出したナポレオンが皇帝に戻ってから、ワーテルローの戦いに敗れるまでの短い支配を何というか。
- ◯ 百日天下
- ◯ 七月王政
- ◯ 恐怖政治
- ◯ 第一帝政
正解:百日天下
エルバ島を抜け出したナポレオンは皇帝に戻ったが、6月のワーテルローの戦いに敗れた。この短い支配を百日天下という。
単元のポイント
- コルシカ島 地中海の島。ナポレオンの生まれ故郷
- ブリュメール18日のクーデタ(新しいタブで開きます) 1799年11月。ナポレオンが総裁政府を倒して権力を握った
- ナポレオン法典(新しいタブで開きます) 1804年に公布されたフランスの民法典で、のちにこの名で呼ばれた。法の前の平等(新しいタブで開きます)や私的所有権の不可侵を定めた
- 大陸封鎖令 1806年。支配下や同盟下にあった大陸の国々に、イギリスとの貿易を禁じた
- 百日天下 1815年、エルバ島を抜け出したナポレオンが皇帝に戻っていた短い期間