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ウィーン体制(たいせい)

1815〜1848年・ヨーロッパ(会議はウィーン)

フクロウ先生キーワードは「正統主義(せいとうしゅぎ)」と「勢力均衡(せいりょくきんこう)」。革命(かくめい)前(まえ)に戻(もど)そうとする力(ちから)と、自由(じゆう)主義(しゅぎ)・ナショナリズムの綱引(つなひ)きとして見(み)よう。

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  1. ナポレオン(新しいタブで開きます)戦争(せんそう)のあと、メッテルニヒ(新しいタブで開きます)が議長(ぎちょう)を務(つと)めたウィーン会議(かいぎ)(1814〜15年(ねん))で戦後(せんご)の国際(こくさい)秩序(ちつじょ)のあり方(かた)が話(はな)し合(あ)われた。
  2. 正統主義(せいとうしゅぎ)と勢力均衡(せいりょくきんこう)を原則(げんそく)とし、大国(たいこく)の協調(きょうちょう)のもとで、保守(ほしゅ)的(てき)な国々(くにぐに)が自由(じゆう)主義(しゅぎ)(新しいタブで開きます)やナショナリズム(新しいタブで開きます)の動(うご)きを抑(おさ)えた。
  3. ラテンアメリカ諸国(しょこく)やギリシア・ベルギーの独立(どくりつ)、1830年(ねん)の七月(しちがつ)革命(かくめい)(新しいタブで開きます)でゆらぎ、1848年(ねん)の革命(かくめい)でメッテルニヒが失脚(しっきゃく)して崩(くず)れていく。
いつ
1815〜1848年(ねん)(教科書(きょうかしょ)での一般(いっぱん)的(てき)な区切(くぎ)り)
どこ
ヨーロッパ(会議(かいぎ)はウィーン)
誰
メッテルニヒ・タレーラン・アレクサンドル1世(せい)
何
大国(たいこく)の協調(きょうちょう)で、革命(かくめい)前(まえ)の秩序(ちつじょ)を守(まも)ろうとした

詳しく

背景(はいけい)

フランス革命(かくめい)(新しいタブで開きます)とナポレオン戦争(せんそう)は、20年(ねん)以上(いじょう)にわたってヨーロッパの国境(こっきょう)と王朝(おうちょう)を大(おお)きく揺(ゆ)り動(うご)かした。1814年(ねん)にナポレオンが退位(たいい)すると、戦後(せんご)の秩序(ちつじょ)を話(はな)し合(あ)うため、各国(かっこく)の代表(だいひょう)がオーストリアの首都(しゅと)ウィーンに集(あつ)まる(ウィーン会議(かいぎ))。議長(ぎちょう)を務(つと)めたのはオーストリアの外相(がいしょう)メッテルニヒである。各国(かっこく)の利害(りがい)がぶつかって話(はな)し合(あ)いはなかなか進(すす)まず、「会議(かいぎ)は踊(おど)る、されど進(すす)まず」と皮肉(ひにく)られた。1815年(ねん)3月(がつ)、エルバ島(とう)を脱出(だっしゅつ)したナポレオンがパリに戻(もど)って復位(ふくい)すると会議(かいぎ)は大(おお)きく揺(ゆ)れたが、6月(がつ)9日(ここのか)にウィーン議定書(ぎていしょ)が調印(ちょういん)された。

ウィーン会議の各国代表を題材に、イザベイの原画をもとに1833〜1872年に作られた版画『Der Wiener Congress 1815』 Bernhard J. Dondorf(版)・Jean-Baptiste Isabey(原画)/CC0

流(なが)れ

ウィーン会議(かいぎ)の原則(げんそく)となったのは、フランス代表(だいひょう)のタレーランが唱(とな)えた正統主義(せいとうしゅぎ)である。革命(かくめい)前(まえ)の正統(せいとう)な王朝(おうちょう)を復活(ふっかつ)させるという考(かんが)え方(かた)で、1814年(ねん)にフランスやスペインで進(すす)んでいたブルボン朝(ちょう)の復活(ふっかつ)を正当(せいとう)化(か)した。もう一(ひと)つの原則(げんそく)は、大国(たいこく)どうしの力(ちから)をつり合(あ)わせる勢力均衡(せいりょくきんこう)である。ロシア皇帝(こうてい)は新(あら)たにつくられたポーランド立憲(りっけん)王国(おうこく)の王(おう)を兼(か)ね、プロイセンはライン川(がわ)沿(ぞ)いの地域(ちいき)を、オーストリアは北(きた)イタリアを得(え)る。イギリスはナポレオン戦争後(せんそうご)の講和(こうわ)を通(つう)じて、セイロン島(とう)やケープ植民地(しょくみんち)を確保(かくほ)した。ドイツでは35の君主国(くんしゅこく)と4つの自由(じゆう)市(し)からなるドイツ連邦(れんぽう)(新しいタブで開きます)がつくられ、スイスは永世(えいせい)中立(ちゅうりつ)を認(みと)められた。

1815年(ねん)には、ロシア皇帝(こうてい)アレクサンドル1世(せい)の呼(よ)びかけで、キリスト教(きょう)の精神(せいしん)にもとづく神聖同盟(しんせいどうめい)が結(むす)ばれた。さらにイギリス・ロシア・オーストリア・プロイセンは四国(しこく)同盟(どうめい)を結(むす)び、革命(かくめい)や戦争(せんそう)の再発(さいはつ)を防(ふせ)ぐ体制(たいせい)を整(ととの)える(1818年(ねん)にフランスが加(くわ)わって五国(ごこく)同盟(どうめい)となる)。こうした大国(たいこく)の協調(きょうちょう)による国際(こくさい)秩序(ちつじょ)を、ウィーン体制(たいせい)とよぶ。

ウィーン体制(たいせい)のもとで、オーストリア・ロシア・プロイセンなどの保守(ほしゅ)的(てき)な大国(たいこく)は、革命(かくめい)が広(ひろ)めた自由(じゆう)主義(しゅぎ)やナショナリズムの動(うご)きを抑(おさ)えこもうとした。ドイツの学生(がくせい)団体(だんたい)(ブルシェンシャフト)の運動(うんどう)や、イタリアの秘密(ひみつ)結社(けっしゃ)カルボナリの蜂起(ほうき)、ロシアのデカブリストの乱(らん)(1825年(ねん))は、いずれも弾圧(だんあつ)された。

ウィーン体制を主導したメッテルニヒ(1815年ごろの肖像)『Clemens Lothar Wenzel, Prince Metternich』 Thomas Lawrence(画)/パブリックドメイン

結果(けっか)

しかし、ウィーン体制(たいせい)には少(すこ)しずつほころびが生(しょう)じた。ラテンアメリカの国々(くにぐに)が次々(つぎつぎ)に独立(どくりつ)し、ギリシアでは、1830年(ねん)に英(えい)仏(ふつ)露(ろ)がその独立(どくりつ)を承認(しょうにん)した(国境(こっきょう)が定(さだ)まるのは1832年(ねん))。1830年(ねん)のフランスの七月(しちがつ)革命(かくめい)の影響(えいきょう)も受(う)けて、ベルギーもオランダからの独立(どくりつ)を宣言(せんげん)した。そして1848年(ねん)、フランスの二月(にがつ)革命(かくめい)(新しいタブで開きます)に続(つづ)いてウィーンでも三月(さんがつ)革命(かくめい)が起(お)こると、メッテルニヒは失脚(しっきゃく)して国外(こくがい)へ亡命(ぼうめい)する。教科書(きょうかしょ)では、この1848年(ねん)の革命(かくめい)とメッテルニヒの失脚(しっきゃく)をウィーン体制(たいせい)の終(お)わりとすることが多(おお)い。

主な出来事

  1. ウィーン会議(かいぎ)が正式(せいしき)に開会(かいかい)
  2. ウィーン議定書(ぎていしょ)
  3. 神聖同盟(しんせいどうめい)
  4. 四国(しこく)同盟(どうめい)
  5. カールスバート決議(けつぎ)(ブルシェンシャフトの弾圧(だんあつ))
  6. デカブリストの乱(らん)
  7. 七月(しちがつ)革命(かくめい)
  8. 三月(さんがつ)革命(かくめい)・メッテルニヒの失脚(しっきゃく)

確認問題

問題 1 / 4ウィーン会議(かいぎ)の議長(ぎちょう)を務(つと)めたオーストリアの外相(がいしょう)は?

確認問題(解答用紙)

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  1. ウィーン会議(かいぎ)の議長(ぎちょう)を務(つと)めたオーストリアの外相(がいしょう)は?

    • ◯ タレーラン
    • ◯ メッテルニヒ
    • ◯ アレクサンドル1世(せい)
    • ◯ ビスマルク

    正解:メッテルニヒ
    メッテルニヒ(新しいタブで開きます)はその後(ご)も自由(じゆう)主義(しゅぎ)(新しいタブで開きます)やナショナリズム(新しいタブで開きます)の運動(うんどう)を抑(おさ)え続(つづ)け、1848年(ねん)の三月(さんがつ)革命(かくめい)(新しいタブで開きます)で失脚(しっきゃく)した。タレーランはフランス代表(だいひょう)。

  2. 革命(かくめい)前(まえ)の正統(せいとう)な王朝(おうちょう)を復活(ふっかつ)させるという、ウィーン会議(かいぎ)の原則(げんそく)を何(なん)という?

    答え:____________

    正解:正統主義
    フランス代表(だいひょう)のタレーランが唱(とな)えた。これにもとづいてフランスやスペインでブルボン朝(ちょう)が復活(ふっかつ)した。

  3. 次(つぎ)の出来事(できごと)を起(お)きた順(じゅん)に並(なら)べよう。

    • ( )七月(しちがつ)革命(かくめい)
    • ( )ウィーン議定書(ぎていしょ)
    • ( )三月(さんがつ)革命(かくめい)
    • ( )デカブリストの乱(らん)

    正解:ウィーン議定書 → デカブリストの乱 → 七月革命 → 三月革命
    ウィーン議定書(ぎていしょ)(1815年(ねん))→デカブリストの乱(らん)(1825年(ねん))→七月(しちがつ)革命(かくめい)(新しいタブで開きます)(1830年(ねん))→三月(さんがつ)革命(かくめい)(1848年(ねん))。

  4. 教科書(きょうかしょ)でウィーン体制(たいせい)の終(お)わりとされる出来事(できごと)は?

    • ◯ 1848年(ねん)の革命(かくめい)でメッテルニヒが失脚(しっきゃく)した
    • ◯ ナポレオンがロシア遠征(えんせい)に敗(やぶ)れた
    • ◯ ドイツ連邦(れんぽう)がつくられた
    • ◯ 神聖同盟(しんせいどうめい)が結(むす)ばれた

    正解:1848年の革命でメッテルニヒが失脚した
    フランスの二月(にがつ)革命(かくめい)の影響(えいきょう)も受(う)けて、各地(かくち)でそれぞれの不満(ふまん)を背景(はいけい)に革命(かくめい)が起(お)きた(「諸国民(しょこくみん)の春(はる)」)。ウィーンの三月(さんがつ)革命(かくめい)で、体制(たいせい)の中心(ちゅうしん)人物(じんぶつ)メッテルニヒが失脚(しっきゃく)した。それまでにも1830年(ねん)の七月(しちがつ)革命(かくめい)などで体制(たいせい)はゆらいでいた。

単元のポイント

  • 正統主義(せいとうしゅぎ) 革命(かくめい)前(まえ)の正統(せいとう)な王朝(おうちょう)を復活(ふっかつ)させようとする考(かんが)え。タレーランが唱(とな)えた
  • 勢力均衡(せいりょくきんこう) 大国(たいこく)どうしの力(ちから)をつり合(あ)わせて、戦争(せんそう)を防(ふせ)ごうとする考(かんが)え
  • 神聖同盟(しんせいどうめい) 1815年(ねん)、ロシア皇帝(こうてい)アレクサンドル1世(せい)が提唱(ていしょう)した君主(くんしゅ)の同盟(どうめい)
  • 四国(しこく)同盟(どうめい) 1815年(ねん)、イギリス・ロシア・オーストリア・プロイセンが結(むす)んだ。フランスの再(さい)膨張(ぼうちょう)を防(ふせ)ぎ、会議(かいぎ)の決定(けってい)を守(まも)るための同盟(どうめい)。1818年(ねん)にフランスが加(くわ)わった
  • 三月(さんがつ)革命(かくめい)(新しいタブで開きます) 1848年(ねん)。ウィーンでメッテルニヒが失脚(しっきゃく)した
問題を解く
単元のポイント
  • 正統主義(せいとうしゅぎ) 革命(かくめい)前(まえ)の正統(せいとう)な王朝(おうちょう)を復活(ふっかつ)させようとする考(かんが)え。タレーランが唱(とな)えた
  • 勢力均衡(せいりょくきんこう) 大国(たいこく)どうしの力(ちから)をつり合(あ)わせて、戦争(せんそう)を防(ふせ)ごうとする考(かんが)え
  • 神聖同盟(しんせいどうめい) 1815年(ねん)、ロシア皇帝(こうてい)アレクサンドル1世(せい)が提唱(ていしょう)した君主(くんしゅ)の同盟(どうめい)
  • 四国(しこく)同盟(どうめい) 1815年(ねん)、イギリス・ロシア・オーストリア・プロイセンが結(むす)んだ。フランスの再(さい)膨張(ぼうちょう)を防(ふせ)ぎ、会議(かいぎ)の決定(けってい)を守(まも)るための同盟(どうめい)。1818年(ねん)にフランスが加(くわ)わった
  • 三月(さんがつ)革命(かくめい)(新しいタブで開きます) 1848年(ねん)。ウィーンでメッテルニヒが失脚(しっきゃく)した