普墺戦争
30秒でつかむ
- 1866年、ドイツ統一(新しいタブで開きます)の中心をめぐって、プロイセンとオーストリアが戦った戦争。
- プロイセン軍はケーニヒグレーツの戦いで勝敗を決め、戦いは7週間で終わった。
- ドイツ連邦(新しいタブで開きます)は解体され、1867年にオーストリアを除くプロイセン中心の北ドイツ連邦ができた。
詳しく
背景
19世紀の半ば、ドイツはまだ多くの国々に分かれていた。これらの国々のゆるやかなまとまりが、1815年のウィーン会議(新しいタブで開きます)で決まったドイツ連邦である。どちらが中心になって統一を進めるかをめぐり、プロイセンとオーストリアが争っていた。
1864年、両国はデンマークに兵を送り、シュレスヴィヒとホルシュタインの2つの地方を占領した。この2つの地方は、両国がともに管理することになる。1865年には分け方を取り決め、ホルシュタインはオーストリアが治めることになった。しかし、管理をめぐる両国の争いはおさまらなかった。
流れ
プロイセン首相ビスマルク(新しいタブで開きます)は、前もってイタリアと同盟を結び、フランスやロシアが口を出さないように手を打っていた。1866年6月、プロイセンはオーストリアとの戦争に踏み切り、普墺戦争が始まった。ドイツ連邦の国々の多くは、オーストリアの側につく。
参謀総長モルトケが率いるプロイセン軍は、鉄道や電信を使って大軍をすばやく動かした。そして、ボヘミアのケーニヒグレーツ(サドヴァ)の戦いでオーストリア軍の主力の部隊を破り、勝敗を決めたのである。戦いはわずか7週間で終わったので、「7週間戦争」ともよばれる。
結果
1866年8月のプラハ条約で、オーストリアはドイツ連邦から抜け、ドイツの統一に口を出さないと約束した。シュレスヴィヒとホルシュタインは、プロイセンのものとなる。ドイツ連邦はなくなった。1867年、プロイセンを含むマイン川より北の22の国々が北ドイツ連邦をつくり、プロイセンがそのまとめ役(盟主)となった。この連邦が、1871年のドイツ帝国(新しいタブで開きます)の成立の土台となる。
確認問題
確認問題(解答用紙)
スマホやタブレットで読み取ると、この問題をその場で解けます。
https://manazoo.com/history/austro-prussian-war/?from=print#quiz
1866年、プロイセン軍がオーストリア軍の主力の部隊を破り、普墺戦争の勝敗を決めた戦いは?
- ◯ アウステルリッツの戦い
- ◯ スダン(セダン)の戦い
- ◯ ケーニヒグレーツの戦い
- ◯ ワーテルローの戦い
正解:ケーニヒグレーツの戦い
プロイセン軍は、ボヘミアのケーニヒグレーツ(サドヴァ)の戦いでオーストリア軍の主力の部隊を破った。戦争はわずか7週間で決着がついた。普墺戦争の前に、プロイセン首相ビスマルクが同盟を結んだ国は?
- ◯ イタリア
- ◯ イギリス
- ◯ フランス
- ◯ ロシア
正解:イタリア
ビスマルク(新しいタブで開きます)は前もってイタリアと同盟を結び、フランスやロシアが口を出さないように手を打った。そのうえで、オーストリアとの戦争に踏み切った。普墺戦争に勝ったプロイセンが、1867年にマイン川より北のドイツの国々とつくった連邦は?
- ◯ ドイツ関税同盟
- ◯ ライン同盟
- ◯ ドイツ連邦
- ◯ 北ドイツ連邦
正解:北ドイツ連邦
普墺戦争のあとドイツ連邦(新しいタブで開きます)はなくなり、1867年にプロイセンを中心とする北ドイツ連邦ができた。これが1871年のドイツ帝国(新しいタブで開きます)の土台となった。
単元のポイント
- ケーニヒグレーツの戦い 1866年、ボヘミアでプロイセン軍がオーストリア軍の主力の部隊を破った戦い。サドヴァの戦いともいう。この勝利で普墺戦争の勝敗が決まった
- プラハ条約 1866年8月に結ばれた普墺戦争の講和条約。オーストリアはドイツ連邦から抜け、シュレスヴィヒとホルシュタインはプロイセンのものとなった
- 北ドイツ連邦 普墺戦争のあとの1867年、プロイセンを含むマイン川より北の22の国々がつくった連邦。プロイセン王が連邦の代表である首長となった