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普墺戦争(ふおうせんそう)

1866年・ドイツ・ボヘミア

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  1. 1866年(ねん)、ドイツ統一(とういつ)(新しいタブで開きます)の中心(ちゅうしん)をめぐって、プロイセンとオーストリアが戦(たたか)った戦争(せんそう)。
  2. プロイセン軍(ぐん)はケーニヒグレーツの戦(たたか)いで勝敗(しょうはい)を決(き)め、戦(たたか)いは7週間(しゅうかん)で終(お)わった。
  3. ドイツ連邦(れんぽう)(新しいタブで開きます)は解体(かいたい)され、1867年(ねん)にオーストリアを除(のぞ)くプロイセン中心(ちゅうしん)の北(きた)ドイツ連邦(れんぽう)ができた。

詳しく

背景(はいけい)

19世紀(せいき)の半(なか)ば、ドイツはまだ多(おお)くの国々(くにぐに)に分(わ)かれていた。これらの国々(くにぐに)のゆるやかなまとまりが、1815年(ねん)のウィーン会議(かいぎ)(新しいタブで開きます)で決(き)まったドイツ連邦(れんぽう)である。どちらが中心(ちゅうしん)になって統一(とういつ)を進(すす)めるかをめぐり、プロイセンとオーストリアが争(あらそ)っていた。

1864年(ねん)、両国(りょうこく)はデンマークに兵(へい)を送(おく)り、シュレスヴィヒとホルシュタインの2つの地方(ちほう)を占領(せんりょう)した。この2つの地方(ちほう)は、両国(りょうこく)がともに管理(かんり)することになる。1865年(ねん)には分(わ)け方(かた)を取(と)り決(き)め、ホルシュタインはオーストリアが治(おさ)めることになった。しかし、管理(かんり)をめぐる両国(りょうこく)の争(あらそ)いはおさまらなかった。

流(なが)れ

プロイセン首相(しゅしょう)ビスマルク(新しいタブで開きます)は、前(まえ)もってイタリアと同盟(どうめい)を結(むす)び、フランスやロシアが口(くち)を出(だ)さないように手(て)を打(う)っていた。1866年(ねん)6月(がつ)、プロイセンはオーストリアとの戦争(せんそう)に踏(ふ)み切(き)り、普墺戦争(ふおうせんそう)が始(はじ)まった。ドイツ連邦(れんぽう)の国々(くにぐに)の多(おお)くは、オーストリアの側(がわ)につく。

参謀(さんぼう)総長(そうちょう)モルトケが率(ひき)いるプロイセン軍(ぐん)は、鉄道(てつどう)や電信(でんしん)を使(つか)って大軍(たいぐん)をすばやく動(うご)かした。そして、ボヘミアのケーニヒグレーツ(サドヴァ)の戦(たたか)いでオーストリア軍(ぐん)の主力(しゅりょく)の部隊(ぶたい)を破(やぶ)り、勝敗(しょうはい)を決(き)めたのである。戦(たたか)いはわずか7週間(しゅうかん)で終(お)わったので、「7週間(しゅうかん)戦争(せんそう)」ともよばれる。

結果(けっか)

1866年(ねん)8月(がつ)のプラハ条約(じょうやく)で、オーストリアはドイツ連邦(れんぽう)から抜(ぬ)け、ドイツの統一(とういつ)に口(くち)を出(だ)さないと約束(やくそく)した。シュレスヴィヒとホルシュタインは、プロイセンのものとなる。ドイツ連邦(れんぽう)はなくなった。1867年(ねん)、プロイセンを含(ふく)むマイン川(がわ)より北(きた)の22の国々(くにぐに)が北(きた)ドイツ連邦(れんぽう)をつくり、プロイセンがそのまとめ役(やく)(盟主(めいしゅ))となった。この連邦(れんぽう)が、1871年(ねん)のドイツ帝国(ていこく)(新しいタブで開きます)の成立(せいりつ)の土台(どだい)となる。

確認問題

問題 1 / 31866年(ねん)、プロイセン軍(ぐん)がオーストリア軍(ぐん)の主力(しゅりょく)の部隊(ぶたい)を破(やぶ)り、普墺戦争(ふおうせんそう)の勝敗(しょうはい)を決(き)めた戦(たたか)いは?

確認問題(解答用紙)

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https://manazoo.com/history/austro-prussian-war/?from=print#quiz

  1. 1866年(ねん)、プロイセン軍(ぐん)がオーストリア軍(ぐん)の主力(しゅりょく)の部隊(ぶたい)を破(やぶ)り、普墺戦争(ふおうせんそう)の勝敗(しょうはい)を決(き)めた戦(たたか)いは?

    • ◯ アウステルリッツの戦(たたか)い
    • ◯ スダン(セダン)の戦(たたか)い
    • ◯ ケーニヒグレーツの戦(たたか)い
    • ◯ ワーテルローの戦(たたか)い

    正解:ケーニヒグレーツの戦い
    プロイセン軍(ぐん)は、ボヘミアのケーニヒグレーツ(サドヴァ)の戦(たたか)いでオーストリア軍(ぐん)の主力(しゅりょく)の部隊(ぶたい)を破(やぶ)った。戦争(せんそう)はわずか7週間(しゅうかん)で決着(けっちゃく)がついた。

  2. 普墺戦争(ふおうせんそう)の前(まえ)に、プロイセン首相(しゅしょう)ビスマルクが同盟(どうめい)を結(むす)んだ国(くに)は?

    • ◯ イタリア
    • ◯ イギリス
    • ◯ フランス
    • ◯ ロシア

    正解:イタリア
    ビスマルク(新しいタブで開きます)は前(まえ)もってイタリアと同盟(どうめい)を結(むす)び、フランスやロシアが口(くち)を出(だ)さないように手(て)を打(う)った。そのうえで、オーストリアとの戦争(せんそう)に踏(ふ)み切(き)った。

  3. 普墺戦争(ふおうせんそう)に勝(か)ったプロイセンが、1867年(ねん)にマイン川(がわ)より北(きた)のドイツの国々(くにぐに)とつくった連邦(れんぽう)は?

    • ◯ ドイツ関税同盟(かんぜいどうめい)
    • ◯ ライン同盟(どうめい)
    • ◯ ドイツ連邦(れんぽう)
    • ◯ 北(きた)ドイツ連邦(れんぽう)

    正解:北ドイツ連邦
    普墺戦争(ふおうせんそう)のあとドイツ連邦(れんぽう)(新しいタブで開きます)はなくなり、1867年(ねん)にプロイセンを中心(ちゅうしん)とする北(きた)ドイツ連邦(れんぽう)ができた。これが1871年(ねん)のドイツ帝国(ていこく)(新しいタブで開きます)の土台(どだい)となった。

単元のポイント

  • ケーニヒグレーツの戦(たたか)い 1866年(ねん)、ボヘミアでプロイセン軍(ぐん)がオーストリア軍(ぐん)の主力(しゅりょく)の部隊(ぶたい)を破(やぶ)った戦(たたか)い。サドヴァの戦(たたか)いともいう。この勝利(しょうり)で普墺戦争(ふおうせんそう)の勝敗(しょうはい)が決(き)まった
  • プラハ条約(じょうやく) 1866年(ねん)8月(がつ)に結(むす)ばれた普墺戦争(ふおうせんそう)の講和条約(こうわじょうやく)。オーストリアはドイツ連邦(れんぽう)から抜(ぬ)け、シュレスヴィヒとホルシュタインはプロイセンのものとなった
  • 北(きた)ドイツ連邦(れんぽう) 普墺戦争(ふおうせんそう)のあとの1867年(ねん)、プロイセンを含(ふく)むマイン川(がわ)より北(きた)の22の国々(くにぐに)がつくった連邦(れんぽう)。プロイセン王(おう)が連邦(れんぽう)の代表(だいひょう)である首長(しゅちょう)となった

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  • ケーニヒグレーツの戦(たたか)い 1866年(ねん)、ボヘミアでプロイセン軍(ぐん)がオーストリア軍(ぐん)の主力(しゅりょく)の部隊(ぶたい)を破(やぶ)った戦(たたか)い。サドヴァの戦(たたか)いともいう。この勝利(しょうり)で普墺戦争(ふおうせんそう)の勝敗(しょうはい)が決(き)まった
  • プラハ条約(じょうやく) 1866年(ねん)8月(がつ)に結(むす)ばれた普墺戦争(ふおうせんそう)の講和条約(こうわじょうやく)。オーストリアはドイツ連邦(れんぽう)から抜(ぬ)け、シュレスヴィヒとホルシュタインはプロイセンのものとなった
  • 北(きた)ドイツ連邦(れんぽう) 普墺戦争(ふおうせんそう)のあとの1867年(ねん)、プロイセンを含(ふく)むマイン川(がわ)より北(きた)の22の国々(くにぐに)がつくった連邦(れんぽう)。プロイセン王(おう)が連邦(れんぽう)の代表(だいひょう)である首長(しゅちょう)となった