ビスマルク
フクロウ先生統一までのビスマルクは戦争を重ねたが、統一のあとはヨーロッパの大国どうしの戦争を避ける外交に力を注いだ。なぜ動き方が変わったのか、フランスとの関係から考えてみよう。
30秒でつかむ
- 1815年にプロイセンのユンカー(地主貴族)の家に生まれ、外交官としてオーストリアとの対立を経験した。
- 1862年に首相となり、鉄血政策で軍備を拡大した。デンマーク・オーストリア・フランスとの戦争に勝ち、1871年にドイツを統一した。
- ドイツ帝国(新しいタブで開きます)の宰相として同盟外交でフランスを孤立させたが、1890年に皇帝ヴィルヘルム2世と対立して辞任した。
- いつ
- 1815〜1898年(プロイセン首相は1862年から、ドイツ帝国宰相は1871〜1890年)
- どこ
- プロイセン(ベルリン)、ドイツ帝国
- 誰
- オットー・フォン・ビスマルク(国王・皇帝ヴィルヘルム1世(新しいタブで開きます)、皇帝ヴィルヘルム2世)
- 何
- プロイセンを中心にドイツを統一し、帝国宰相として内政と外交を率いた
詳しく
背景
オットー・フォン・ビスマルクは1815年4月1日、プロイセンのユンカーの家に生まれた。ユンカーとは、プロイセンの東部に大きな農場をもつ地主貴族のことである。大学で法律を学んでプロイセンの役人になったが、まもなく辞めて自分の領地の管理にあたった。1847年にプロイセンの連合州議会の議員となり、政治の世界に入る。1848年に自由と統一を求める三月革命(新しいタブで開きます)が起こると、王の側に立って強く反対した。革命のあとはドイツ連邦(新しいタブで開きます)の議会へ送られ、そこでたびたびオーストリアと対立する。ロシア大使とフランス大使もつとめた。そのなかで、オーストリアを除いてプロイセン中心にドイツをまとめるべきだと考えるようになった。
流れ
1862年9月、プロイセン国王ヴィルヘルム1世は、軍の改革をめぐって議会と対立するなかでビスマルクを首相に任命した。ビスマルクは議会で「いまの大きな問題は、演説や多数決ではなく鉄と血によって決まる」と述べる。議会の反対をおさえて軍備を拡大し(鉄血政策)、「鉄血宰相」と呼ばれた。1864年にデンマークを、1866年には普墺戦争(新しいタブで開きます)でオーストリアを破り、1870年からの普仏戦争(新しいタブで開きます)でフランスにも勝った。1871年にドイツ帝国が成立すると、皇帝のもとで政治を率いる初代の宰相となる。
1870年代にはカトリック教会の力をおさえる文化闘争を起こしたが、のちに和解へ向かう。1878年には社会主義者鎮圧法で、社会主義の政党や労働組合の集会や新聞を禁じた。一方で1880年代には、労働者が病気やけがに備える社会保険をつくっている。この組み合わせは「アメとムチ」の政策と呼ばれる。経済では1879年に輸入品に高い税をかける保護関税で、重工業と大農場の利益を守った。
外交では、ドイツへの仕返しをねらうフランスを孤立させようとした。1878年、ロシア=トルコ戦争のあとのベルリン会議では議長となり、各国の利害を調整する。1882年にはオーストリア=ハンガリー・イタリアと三国同盟を結んだ。1887年にはロシアと、一方が他国と戦っても原則として中立を守る再保障条約を結んでいる。こうした同盟の組み合わせをビスマルク体制とよぶ。
結果
1888年にヴィルヘルム2世が皇帝になると、ビスマルクは若い皇帝と対立した。社会主義者鎮圧法の延長や労働者の問題をめぐって意見が合わず、1890年3月、皇帝に退任を求められて宰相を辞めている。その後は自分の歩みを振り返る回想録を書きながら皇帝の政治を批判し続け、1898年7月30日に亡くなった。ビスマルクには、ドイツを統一した国民的英雄という見方がある一方で、議会をおさえて力で政治を進めたという見方もある。
主な出来事
- プロイセンのユンカーの家に生まれる
- プロイセンの連合州議会の議員となる
- 三月革命で王の側に立ち、革命に反対する
- プロイセン首相となり、鉄血演説を行う
- デンマークとの戦争に勝つ
- 普墺戦争でオーストリアを破る
- 普仏戦争が始まる
- ドイツ帝国が成立する
- ドイツ帝国の宰相となる
- 社会主義者鎮圧法を定め、ベルリン会議の議長をつとめる
- 保護関税を導入し、オーストリアと同盟を結ぶ
- ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアの三国同盟が成立する
- 疾病保険法ができ、社会保険が始まる
- ロシアと再保障条約を結ぶ
- ヴィルヘルム2世に退任を求められ、宰相を辞める
- 亡くなる
確認問題
確認問題(解答用紙)
スマホやタブレットで読み取ると、この問題をその場で解けます。
https://manazoo.com/history/bismarck/?from=print#quiz
首相となったビスマルクが、議会の反対をおさえて軍備を拡大し、武力でドイツの統一(新しいタブで開きます)を進めた政策を何というか。
- ◯ 文化闘争
- ◯ 鉄血政策
- ◯ 世界政策
- ◯ 大陸封鎖令
正解:鉄血政策
ビスマルクは「いまの大きな問題は鉄と血によって決まる」と議会で述べ、軍備を拡大した。これを鉄血政策といい、ビスマルクは「鉄血宰相」と呼ばれた。ビスマルクが社会主義者鎮圧法で社会主義をおさえる一方、社会保険の制度をつくったやり方を何とよぶか。
- ◯ 正統主義
- ◯ 勢力均衡
- ◯ アメとムチ
- ◯ 小ドイツ主義
正解:アメとムチ
社会主義者鎮圧法でおさえつける一方で、1880年代には病気やけがのときに労働者を助ける社会保険をつくった。この二つを組み合わせたやり方を「アメとムチ」の政策という。1878年、ロシア=トルコ戦争のあとにビスマルクが議長となって開いた国際会議はどれか。
- ◯ ウィーン会議
- ◯ フランクフルト国民議会
- ◯ パリ講和会議
- ◯ ベルリン会議
正解:ベルリン会議
ビスマルクはベルリン会議の議長として、各国の利害を調整した。ウィーン会議(新しいタブで開きます)はナポレオン(新しいタブで開きます)戦争のあとの1814〜15年に開かれた会議である。1890年、ビスマルクと対立し、ビスマルクが宰相を辞めるもとになった皇帝は誰か。
- ◯ ヴィルヘルム2世
- ◯ ヴィルヘルム1世
- ◯ ナポレオン3世
- ◯ フランツ・ヨーゼフ1世
正解:ヴィルヘルム2世
1888年に皇帝となったヴィルヘルム2世は、社会主義者鎮圧法の延長などをめぐってビスマルクと対立した。ヴィルヘルム1世(新しいタブで開きます)は、ビスマルクを首相に任命した国王である。
単元のポイント
- ユンカー プロイセンの東部に大きな農場をもつ地主貴族。ビスマルクもこの出身
- 鉄血政策 1862年から、議会の反対をおさえて軍備を拡大し、武力でドイツの統一を進めた政策。ビスマルクは「鉄血宰相」と呼ばれた
- 文化闘争 1870年代、ビスマルクがカトリック教会の力をおさえようとして起こした争い
- 社会主義者鎮圧法 1878年。社会主義をかかげる政党や労働組合の集会・出版を禁じた法律
- ベルリン会議 1878年。ロシア=トルコ戦争のあと、ビスマルクが議長となって開いた国際会議