ドイツ連邦
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- 1815年、ウィーン会議(新しいタブで開きます)の結果、ドイツの35の君主国と4つの自由市が集まってドイツ連邦をつくった。
- フランクフルトの連邦議会では議長国オーストリアが中心となり、自由主義(新しいタブで開きます)や統一を求める運動をおさえた。
- 1866年の普墺戦争(新しいタブで開きます)でオーストリアが敗れるとドイツ連邦は解体し、その後プロイセンを中心に北ドイツ連邦ができた。
詳しく
背景
ナポレオン(新しいタブで開きます)の時代に、ドイツの多くの国々をゆるくまとめていた神聖ローマ帝国がなくなった。ドイツの国々は、まとめられたり数を減らされたりした。ナポレオンが敗れたあと、ウィーン会議でドイツの新しい形が話し合われる。
その結果、1815年にドイツ連邦が生まれた。オーストリアやプロイセンなど、35の君主国(王や大公などが治める国)が加わっている。4つの自由市(王を置かず、都市が自ら治める国)も加わった。それぞれの国が独立を保ったまま集まる、ゆるやかな連合であった。
流れ
連邦の中心は、フランクフルトに置かれた連邦議会である。議長はオーストリアが務めた。オーストリアの宰相(首相にあたる役職)メッテルニヒ(新しいタブで開きます)は、プロイセンと手を組んで連邦を動かした。自由主義(憲法や議会で人々の権利を守る考え)やドイツ統一(新しいタブで開きます)を求める運動は、連邦の力でおさえこまれていく。
1848年、ドイツ各地で自由や統一を求める三月革命(新しいタブで開きます)が起こる。そのなかで、選挙で選ばれた議員によるフランクフルト国民議会(新しいタブで開きます)が開かれ、統一を話し合う。7月には、連邦議会もこの議会に権限をゆだねて活動を止めた。革命が失敗すると、連邦は1851年に活動を再開した。しかしその後は、オーストリアとプロイセンが争う場になっていく。
結果
1860年代になると、ドイツ統一を求める声が広がった。プロイセンでビスマルク(新しいタブで開きます)が首相になると、プロイセン中心の統一をめざす側とオーストリアなどとの対立が深まる。1866年、プロイセンとオーストリアが戦った普墺戦争でオーストリアが敗れた。同じ年に戦争を終わらせるプラハ条約が結ばれ、ドイツ連邦は解体された。その後、プロイセンを中心に北ドイツ連邦がつくられ、のちのドイツ統一の土台になったのである。
確認問題
確認問題(解答用紙)
スマホやタブレットで読み取ると、この問題をその場で解けます。
https://manazoo.com/history/german-confederation/?from=print#quiz
ウィーン会議の結果つくられたドイツ連邦で、連邦議会の議長国を務めた国は?
- ◯ バイエルン
- ◯ プロイセン
- ◯ フランス
- ◯ オーストリア
正解:オーストリア
フランクフルトの連邦議会では、オーストリアが議長国として中心となった。オーストリアは宰相メッテルニヒ(新しいタブで開きます)のもとで、自由主義(新しいタブで開きます)や統一を求める運動をおさえた。ドイツ連邦の中心となる機関である連邦議会が置かれた都市は?
- ◯ ミュンヘン
- ◯ フランクフルト
- ◯ ウィーン
- ◯ ベルリン
正解:フランクフルト
連邦議会はフランクフルトに置かれ、各国の政府代表が集まった。連邦の中心となる機関は、この連邦議会1つだけであった。ドイツ連邦が解体されるきっかけになった、1866年の戦争は?
- ◯ 普仏戦争
- ◯ 三十年戦争
- ◯ クリミア戦争
- ◯ 普墺戦争
正解:普墺戦争
1866年の普墺戦争(新しいタブで開きます)でオーストリアがプロイセンに敗れ、同じ年のプラハ条約でドイツ連邦は解体された。その後、プロイセンを中心に北ドイツ連邦がつくられた。
単元のポイント
- 君主国 王や大公(王に次ぐ位の君主)などが治める国。ドイツ連邦には、大きな王国から小さな国まで、さまざまな君主国が加わった
- 連邦議会 ドイツ連邦にただ1つ置かれた中心の機関。フランクフルトにあり、各国の政府の代表が集まった。議長はオーストリアが務めた
- 北ドイツ連邦 普墺戦争に勝ったプロイセンが中心となり、北ドイツの国々でつくった連邦。ドイツ統一の土台になった