普仏戦争
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- 1870年、エムス電報事件で両国の対立が深まり、フランスがプロイセンに宣戦して始まった戦争。
- 9月にナポレオン3世(新しいタブで開きます)がスダン(セダン)で降伏して捕虜となり、第二帝政(新しいタブで開きます)は倒れた。
- 1871年1月にドイツ帝国(新しいタブで開きます)が成立し、5月の講和条約でフランスはアルザス・ロレーヌの大半をゆずった。
詳しく
背景
プロイセンは1866年の普墺戦争(新しいタブで開きます)でオーストリアに勝ち、ドイツの統一(新しいタブで開きます)に大きく近づいた。しかし、南ドイツの国々はまだ加わっていなかった。隣に強い統一国家ができることを恐れたフランスの皇帝ナポレオン3世は、これを妨げようとしていた。
1870年、スペインの国王を誰にするかをめぐって両国が対立する。プロイセン首相ビスマルク(新しいタブで開きます)は、プロイセン王ヴィルヘルム1世(新しいタブで開きます)から届いた電報の文を書きかえて発表した。フランスの大使が国王に無理な要求をし、国王が大使を追い返したように読める文にしたのである(エムス電報事件)。
流れ
書きかえた電報が発表されると、両国の人々の怒りはいっそう高まった。1870年7月、フランスがプロイセンに宣戦し、普仏戦争が始まった。南ドイツの国々もプロイセンの側について戦い、プロイセン軍は勝ち続ける。9月2日、ナポレオン3世はフランス北東部のスダン(セダン)で包囲されて降伏し、捕虜となった。
2日後、パリでは皇帝を置かない共和政(第三共和政)が宣言され、ナポレオン3世の第二帝政は倒れた。新しくできた国防政府は戦いを続けたが、1871年1月28日、パリはついに降伏する。1871年3月には、パリの民衆がフランス政府に反抗してパリ・コミューンをつくったが、5月にフランス政府軍に倒された。
結果
パリが降伏する前の1871年1月18日、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間でドイツ帝国の成立が宣言された。こうして、ドイツの統一が完成したのである。5月には、戦争を終わらせるフランクフルト講和条約が結ばれた。フランスはアルザス・ロレーヌの大半をドイツにゆずり、50億フランの賠償金を払うことになる。
この戦争は、フランスの人々にドイツへの深い恨みを残した。
確認問題
確認問題(解答用紙)
スマホやタブレットで読み取ると、この問題をその場で解けます。
https://manazoo.com/history/franco-prussian-war/?from=print#quiz
1870年、ビスマルクがプロイセン王の電報の文を書きかえて発表し、普仏戦争のきっかけをつくった出来事は?
- ◯ ピルニッツ宣言
- ◯ ブリュメール18日のクーデタ
- ◯ ヴァレンヌ逃亡事件
- ◯ エムス電報事件
正解:エムス電報事件
ビスマルク(新しいタブで開きます)は、フランスの大使が国王に無理な要求をし、国王が大使を追い返したように読める文に電報を書きかえて発表した。これがエムス電報事件で、両国の人々の怒りをあおった。1870年9月、スダン(セダン)で包囲されて降伏し、捕虜となったフランスの皇帝は?
- ◯ ナポレオン1世
- ◯ ナポレオン3世
- ◯ ルイ16世
- ◯ ルイ=フィリップ
正解:ナポレオン3世
ナポレオン3世(新しいタブで開きます)はスダンで降伏して捕虜となった。2日後にパリで皇帝を置かない共和政(第三共和政)が宣言され、第二帝政(新しいタブで開きます)は倒れた。普仏戦争のあと、フランスが大半をドイツにゆずった地方は?
- ◯ ノルマンディー
- ◯ サヴォイア
- ◯ ブルターニュ
- ◯ アルザス・ロレーヌ
正解:アルザス・ロレーヌ
1871年5月のフランクフルト講和条約で、フランスはアルザス・ロレーヌの大半をドイツにゆずった。さらに、50億フランの賠償金を払うことになった。
単元のポイント
- エムス電報事件 1870年7月、ビスマルクは、ドイツの温泉地エムスにいたプロイセン王の電報の文を書きかえて新聞に出した。これがフランスとドイツの人々の怒りをあおり、普仏戦争が始まるきっかけとなった
- アルザス・ロレーヌ 普仏戦争のあと、その大半がドイツの領土になった地方。フランス北東部の、ドイツとの境にある
- パリ・コミューン 1871年3月、戦争に負けたあとのパリで、労働者や市民がフランス政府に反抗してつくった、パリを治める自治政府。5月にフランス政府軍に倒された