第二帝政
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- 1852年、ルイ=ナポレオン(新しいタブで開きます)が皇帝ナポレオン3世となって始まったフランスの帝政。
- 鉄道の建設やパリの大改造で経済を盛り上げ、クリミア戦争(新しいタブで開きます)などで外国へも軍を送った。
- 1870年の普仏戦争(新しいタブで開きます)で皇帝がスダン(セダン)で降伏し、9月4日に第二帝政は倒れた。
詳しく
背景
1848年の二月革命(新しいタブで開きます)のあと、ナポレオン1世(新しいタブで開きます)の甥ルイ=ナポレオンが第二共和政の大統領に選ばれた。彼は1851年12月2日にクーデタを起こし、武力で議会を解散する。翌1852年12月2日、皇帝ナポレオン3世となり、第二帝政が始まった。ナポレオン1世の帝政(第一帝政)と区別して、「第二」とよぶ。
はじめは皇帝ひとりに力が集まり、意見を言う自由や、集会を開いたり団体をつくったりする自由はきびしくおさえられた。その一方で、議会(立法院)の議員は、財産に関係なく男性が投票できる男子普通選挙(新しいタブで開きます)で選ばれていた。
流れ
国民の支持を集めるため、ナポレオン3世は経済を豊かにすることと、外国での成功に力を入れた。国は銀行づくりをあと押しし、集まったお金で鉄道の建設が進む。フランスの鉄道網は、第二帝政のもとで大きく延びた。パリでは、セーヌ県の知事オスマンが、狭い道を広い大通りに変える大改造を進めた。1855年と1867年には、世界の国々が産業や技術の品を持ち寄って見せる万国博覧会も、パリで開かれる。
外国へは、クリミア戦争やイタリア統一(新しいタブで開きます)の戦争に軍を送り、メキシコにも兵を出した。1860年ごろからは、反対する人々の声にこたえて、自由をしだいに認めるようになった。
結果
ナポレオン3世は1864年に、労働者がそろって仕事を止めるストライキの権利を認めた。1868年には新聞や集会の制限をゆるめ、1870年1月には、議会の支持を得ていた政治家オリヴィエに内閣をつくらせた。しかし1870年7月にプロイセンとの普仏戦争を始め、9月2日には皇帝自身がスダン(セダン)で降伏した。敗北の知らせを受けて9月4日にパリの民衆が立ち上がり、第二帝政は倒れて、共和政が宣言される。
確認問題
確認問題(解答用紙)
スマホやタブレットで読み取ると、この問題をその場で解けます。
https://manazoo.com/history/second-french-empire/?from=print#quiz
1852年に皇帝となり、第二帝政を始めた人物は?
- ◯ シャルル10世
- ◯ ルイ=フィリップ
- ◯ ナポレオン3世
- ◯ ナポレオン1世
正解:ナポレオン3世
第二共和政の大統領ルイ=ナポレオン(新しいタブで開きます)は、1851年に武力で議会を解散させた(クーデタ)。翌1852年12月、皇帝ナポレオン3世となった。ナポレオン1世(新しいタブで開きます)の第一帝政に対して、第二帝政とよぶ。第二帝政のもとで、セーヌ県の知事オスマンが進めたこととして正しいものは?
- ◯ パリの道を広げる大改造
- ◯ 男子普通選挙の廃止
- ◯ スエズ運河を掘る工事の指揮
- ◯ プロイセンとの戦争の指揮
正解:パリの道を広げる大改造
オスマンは、パリの狭い道を広い大通りに変える大改造を進めた。1855年と1867年には、パリで万国博覧会も開かれている。第二帝政が倒れるきっかけとなった戦争は?
- ◯ 普仏戦争
- ◯ クリミア戦争
- ◯ メキシコ出兵
- ◯ イタリア統一戦争
正解:普仏戦争
1870年、ナポレオン3世はプロイセンとの普仏戦争(新しいタブで開きます)を始め、9月2日にスダン(セダン)で降伏した。敗北の知らせを受けて9月4日にパリの民衆が立ち上がり、第二帝政は倒れた。
単元のポイント
- 男子普通選挙(新しいタブで開きます) 財産や納める税の額による制限をなくし、一定の年齢以上の男性に選挙権を認めるしくみ。第二帝政はこれを取り入れながら、皇帝が強い力を持った
- オスマン 第二帝政のもとでパリの大改造を進めたセーヌ県の知事。狭い道を広い大通りにつくりかえ、パリの町並みを大きく変えた
- 普仏戦争(新しいタブで開きます) 1870〜71年のプロイセンとフランスの戦争。ナポレオン3世がスダンで降伏し、第二帝政が倒れた