ダントン
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- 1790年にパリで政治の集まり(コルドリエ・クラブ)をつくり、得意の演説で民衆の人気を集めた。
- 1792年8月に王の権限が停止された直後に法務大臣となり、のちに議会(国民公会(新しいタブで開きます))で山岳派(新しいタブで開きます)の指導者の一人になった。
- 恐怖政治(新しいタブで開きます)をゆるめるよう求めてロベスピエール(新しいタブで開きます)らと対立し、1794年4月に処刑された。
詳しく
背景
1759年、フランスのシャンパーニュ地方の小さな町で生まれた。パリに出て法律を学び、1787年に国王の会議に関わる弁護士の職をお金で買った。1789年に革命が始まると、住んでいたパリの地区で議長に選ばれる。翌年には、政治を見張って批判する民間の集まりであるコルドリエ・クラブをつくった。このクラブは会費が安く、民衆に近い立場から、政治や社会のしくみを大きく変えようとした。ダントンは演説が得意で、パリの民衆の人気を集めていく。
流れ
1792年8月10日、パリの民衆が王宮を襲い、議会は王の権限を停止した(八月十日事件)。ダントンはその直後に法務大臣となった。9月には外国の軍隊がパリに迫り、政府も議会も動揺していた。ダントンは国を守るために大胆に行動せよと政府と議会を励まし、国を救う英雄と見られるようになる。同じ年の秋、新しい議会である国民公会の議員に選ばれた。そして、ロベスピエールらとともに、思い切った改革を求める山岳派の指導者の一人となる。1793年3月には、革命に反対する人々を裁く革命裁判所(新しいタブで開きます)をつくることに力を尽くした。4月には、政治や戦争の指導を受け持つ公安委員会(新しいタブで開きます)に加わる。しかし7月には委員から外れた。
結果
1793年秋から、山岳派の中で争いが激しくなった。ダントンは、敵とみなした人々を次々に処刑する恐怖政治をゆるめるよう求めるようになる。そのため、さらに強い手段を求めるエベール派とも、ロベスピエールを中心とする人々とも対立する。1794年3月、エベール派が倒れたあと、ダントンもロベスピエールらによって捕らえられた。そして4月5日、仲間とともに処刑された。
確認問題
確認問題(解答用紙)
スマホやタブレットで読み取ると、この問題をその場で解けます。
https://manazoo.com/history/danton/?from=print#quiz
1790年、ダントンがパリでつくった、政治を見張って批判する集まりは?
- ◯ 公安委員会
- ◯ 国民議会
- ◯ フイヤン・クラブ
- ◯ コルドリエ・クラブ
正解:コルドリエ・クラブ
ダントンは1790年にコルドリエ・クラブをつくった。会費が安く、民衆に近い立場から、政治や社会のしくみを大きく変えようとした集まりである。1792年8月、王の権限が停止された直後に、ダントンがついた役職は?
- ◯ 法務大臣
- ◯ 第一統領
- ◯ 皇帝
- ◯ 財務総監
正解:法務大臣
1792年8月10日にパリの民衆が王宮を襲い、議会が王の権限を停止すると、ダントンはその直後に法務大臣となった。ダントンがロベスピエールらと対立したのは、何を求めたからか?
- ◯ 貴族の特権を守ること
- ◯ 国王の権限をもとにもどすこと
- ◯ ナポレオンを統領にすること
- ◯ 恐怖政治をゆるめること
正解:恐怖政治をゆるめること
ダントンは恐怖政治(新しいタブで開きます)をゆるめるよう求め、ロベスピエール(新しいタブで開きます)らと対立した。その後、告発されて捕らえられ、1794年4月5日に処刑された。
単元のポイント
- 山岳派(新しいタブで開きます) 国民公会(当時の議会)で、議場の高い席に座った、思い切った改革を求める議員たち。ロベスピエールやダントンが指導し、ジロンド派(新しいタブで開きます)を追い出して政治の中心となった
- 公安委員会(新しいタブで開きます) 1793年4月に国民公会がつくった、政府の中心となる委員会。ダントンも初めの委員の一人だったが、7月に外れた
- 恐怖政治(新しいタブで開きます) 1793〜94年に山岳派の革命政府が行った政治。革命の敵とみなした人々を捕らえ、多くを処刑した