ジロンド派
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- フランス革命(新しいタブで開きます)期の党派で、豊かな市民の考えを代表し共和政を支持した。主な議員にジロンド県から選ばれた人が多かった。
- 立法議会で戦争を強く主張し、1792年4月にオーストリアとの革命戦争が始まった。
- 国民公会(新しいタブで開きます)で山岳派(新しいタブで開きます)と争い、1793年6月2日に主な議員29人が追放された。
詳しく
背景
フランス革命のときに、立法議会と国民公会で活動した党派をジロンド派とよぶ。中心となったのはブリソ・コンドルセ・ヴェルニオらの議員と、大臣のロランである。名前がついたのは、主な議員にジロンド県から選ばれた人が多かったからである。ただし、この名前が広まったのは19世紀になってからで、当時は「ブリソ派」などとよばれていた。
港町の銀行家や大商人など、豊かな市民の考えを代表し、王のいない政治(共和政)を支持した。国民公会では、山岳派よりも穏やかな立場をとっている。
流れ
1791年秋に始まった立法議会では、ジロンド派は議場の左側に座った。外国の王たちと結ぶ国王に対抗し、戦争を強く主張したのである。1792年3月には、ジロンド派に近い人々が大臣となった政府ができた。4月、フランスはオーストリアに戦いを宣言し、ヨーロッパの国々との戦争(革命戦争)が始まる。しかし、フランス軍はしばらく負け続けた。
同じ年の8月10日、パリの民衆が王宮をおそって王の権力を止めたとき、ジロンド派は民衆の動きに加わらなかった。9月の国民公会では右側の席に移り、革命をさらに進めようとする左側の山岳派と争うことになる。はじめは中間の議員の支持を得て優勢だった。
結果
国民公会のジロンド派は、国王ルイ16世(新しいタブで開きます)の裁判で結論を延ばそうとした。処罰を国民の判断にゆだねる案などを出し、民衆に強く非難される。物の値段が上がり、食料の不足に苦しむ民衆が国に値段をおさえるよう求めても、受け入れなかった。1793年6月2日、山岳派と結んだパリの民衆が議場を取り囲むなかで、主な議員29人が国民公会から追放された。ブリソら約20人は10月に処刑され、元大臣のロランは自ら命を絶った。
確認問題
確認問題(解答用紙)
スマホやタブレットで読み取ると、この問題をその場で解けます。
https://manazoo.com/history/girondins/?from=print#quiz
ジロンド派という名前の由来として正しいものは?
- ◯ 新聞『ジロンド』を出していたこと
- ◯ 指導者の名前がジロンドだったこと
- ◯ ジロンド県から選ばれた議員が多かったこと
- ◯ ジロンド川のほとりで結成されたこと
正解:ジロンド県から選ばれた議員が多かったこと
ジロンド派の主な議員には、ジロンド県から選ばれた人が多かった。ただし、この名前が広まったのは19世紀で、当時は指導者の名前から「ブリソ派」などとよばれていた。1792年4月、ジロンド派などが強く主張して始まった戦争で、フランスが最初に戦いを宣言した国は?
- ◯ イギリス
- ◯ ロシア
- ◯ オーストリア
- ◯ スペイン
正解:オーストリア
ジロンド派は戦争を強く主張した。1792年4月、立法議会の決定でフランスはオーストリアに戦いを宣言した。こうして革命戦争が始まり、やがてプロイセンも戦争に加わった。国民公会でジロンド派と争い、1793年6月にジロンド派の主な議員を国民公会から追放したグループは?
- ◯ 平原派
- ◯ フイヤン派
- ◯ 王党派
- ◯ 山岳派
正解:山岳派
国民公会(新しいタブで開きます)では、議場の右側に座ったジロンド派と、左側に座った山岳派(新しいタブで開きます)が争った。1793年6月2日、パリの民衆が議場を取り囲むなかで、ジロンド派の主な議員29人が国民公会から追放された。
単元のポイント
- 立法議会 1791年の憲法にもとづいて開かれたフランスの議会。1792年4月にオーストリアに戦いを宣言した。8月に民衆が立ち上がると王の権力を止め、9月に解散した
- 山岳派(新しいタブで開きます) 国民公会で議場の高い席に座った左派の議員たち。パリの民衆と手を組み、ジロンド派を追い出したあと、反対する人々を次々に処刑する恐怖政治(新しいタブで開きます)を行った
- 革命戦争 1792年に始まった、革命中のフランスとヨーロッパの国々との戦争。のちのナポレオン(新しいタブで開きます)の戦争へと引き継がれた