革命裁判所
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- 1793年3月、フランス革命(新しいタブで開きます)のさなかに国民公会(新しいタブで開きます)が、反革命(新しいタブで開きます)の動きを抑えるためパリに革命裁判所を設けた。
- 1793年秋から本格的に動き、恐怖政治(新しいタブで開きます)の中心的な機関として王妃やジロンド派(新しいタブで開きます)の人々を処刑台へ送った。
- テルミドール9日のクーデタ(新しいタブで開きます)(1794年7月)の後に力を弱められ、1795年5月に廃止された。
詳しく
背景
1792年9月、新しい議会として国民公会が開かれ、国王のいない共和政が始まった。翌1793年1月には、国王ルイ16世(新しいタブで開きます)を処刑している。そのころフランスは外国との戦争で苦しくなり、国内でも王を支持する人々が反乱を起こす。このように、革命をくつがえして前のしくみにもどそうとする動きを反革命という。危機に対応するため、国民公会は1793年3月10日、パリに革命裁判所を設けた。反革命の疑いをかけた人々を、簡単な手続きで裁くための裁判所である。前の年の夏にも、同じような裁判所が一時的に置かれていた。
流れ
1793年9月には反革命容疑者法ができ、反革命の疑いがある人が大量に捕らえられた。同じ月、革命裁判所は手続きをさらに簡単にして、働きを強めている。裁判官の候補は、国民公会の中で政治を動かす中心となった公安委員会(新しいタブで開きます)などが決め、国民公会が任命した。こうして裁判所は秋から本格的に動き、恐怖政治の中心的な機関となる。恐怖政治とは、革命政府が敵や反対派とみなした人々を捕らえ、処刑して抑えつけた政治である。王妃マリー・アントワネット(新しいタブで開きます)や、国民公会でロベスピエール(新しいタブで開きます)らと対立していたジロンド派の人々も、ここで裁かれて処刑された。
結果
1794年6月には、裁判の手続きをさらに省く法律ができた。裁かれる人(被告)は弁護人をつけられなくなり、有罪とされれば刑は死刑だけになる。パリでは6週間で1300人以上が処刑された。1794年7月のテルミドール9日のクーデタで、裁判所を動かしてきたロベスピエールらが倒れる。その後、裁判所は8月にしくみを改められて力を弱め、1795年5月に廃止された。
確認問題
確認問題(解答用紙)
スマホやタブレットで読み取ると、この問題をその場で解けます。
https://manazoo.com/history/revolutionary-tribunal/?from=print#quiz
1793年3月、反革命の動きを抑えるため、パリに革命裁判所を設けた議会は?
- ◯ 国民議会
- ◯ 立法議会
- ◯ 三部会
- ◯ 国民公会
正解:国民公会
革命裁判所は、1792年9月に開かれた国民公会(新しいタブで開きます)が、1793年3月10日にパリに設けた。外国との戦争や国内の反乱という危機に対応するためだった。1793年秋、革命裁判所の裁判官の候補選びに関わった、国民公会の中の委員会は?
- ◯ 公安委員会
- ◯ ジャコバン・クラブ
- ◯ 三部会
- ◯ 総裁政府
正解:公安委員会
裁判官の候補は、公安委員会(新しいタブで開きます)などが決め、国民公会が任命した。公安委員会は政治を動かす中心となり、恐怖政治(新しいタブで開きます)を進めた。1794年6月に、裁判の手続きをさらに省く法律ができてからの革命裁判所について、正しいものは?
- ◯ 裁判官が国民の選挙で選ばれた
- ◯ 国王の命令で裁判が行われた
- ◯ 被告はみな弁護人をつけ、時間をかけて裁かれた
- ◯ 被告は弁護人をつけられず、有罪なら刑は死刑だけになった
正解:被告は弁護人をつけられず、有罪なら刑は死刑だけになった
1794年6月の法律で、裁かれる人(被告)は弁護人をつけられなくなり、有罪とされれば刑は死刑だけになった。パリでは6週間で1300人以上が処刑された。
単元のポイント
- 反革命(新しいタブで開きます) 革命をくつがえして、前のしくみにもどそうとする動き。革命政府は、その疑いをかけた人々を捕らえ、革命裁判所で裁いた
- 反革命容疑者法 1793年9月にできた法律。反革命の疑いがある人を捕らえることを広く認め、多くの人が牢獄に入れられた
- 公安委員会(新しいタブで開きます) 当時の議会である国民公会の中に置かれた委員会。政治を動かす中心となって恐怖政治を進め、革命裁判所の裁判官の候補選びにも関わった