国民公会
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- 1792年9月、男子普通選挙(新しいタブで開きます)で選ばれた議員で開かれたフランスの議会。すぐに王政を廃止した。
- 1793年1月にルイ16世(新しいタブで開きます)を処刑し、6月にジロンド派(新しいタブで開きます)が追放されると、山岳派(新しいタブで開きます)のもとで恐怖政治(新しいタブで開きます)が行われた。
- 1794年のテルミドール9日のクーデタ(新しいタブで開きます)の後、1795年に新しい憲法をつくって解散した。
詳しく
背景
1791年の憲法で、国王の力を憲法でしばる立憲君主政(新しいタブで開きます)が始まったが、1792年4月にフランスはオーストリアと戦争を始めた。戦いが不利になるなかで、国王が敵と通じているという疑いが強まっていく。
1792年8月、パリの民衆が武器を取って立ち上がり、王の権力が停止された。新しい議会として9月に開かれた国民公会の議員は、初めて男子普通選挙(財産による制限をなくし、男性に広く選挙権を認めた選挙)で選ばれた。
流れ
国民公会はすぐに王政を廃止し、フランスは王のいない共和政の国となる。議会の中では、革命をさらに進めようとする山岳派と、それに慎重なジロンド派が対立していた。1793年1月、国民公会はルイ16世を裁いて処刑する。
1793年には、イギリスを中心にヨーロッパの国々が手を結び、フランスに対抗した。同じ年の6月にジロンド派の主な議員が追放されると、山岳派が力を握った。そして、政治を取り仕切る公安委員会(新しいタブで開きます)を中心に恐怖政治が行われた。
結果
1794年7月のテルミドール9日のクーデタでロベスピエール(新しいタブで開きます)らが倒れると、国民公会は恐怖政治のしくみをなくしていった。1795年には、財産などによって選挙権を限る制限選挙(新しいタブで開きます)を定めた新しい憲法をつくった。10月に国民公会は解散し、そのあとは二院の議会と、行政を受け持つ総裁政府(新しいタブで開きます)が政治を担った。国民公会は、メートル法を採用したことでも知られる。
確認問題
確認問題(解答用紙)
スマホやタブレットで読み取ると、この問題をその場で解けます。
https://manazoo.com/history/national-convention/?from=print#quiz
国民公会が、1792年9月に開かれてすぐに決めたことは?
- ◯ 人権宣言を出すこと
- ◯ 三部会を開くこと
- ◯ ナポレオンを皇帝にすること
- ◯ 王政を廃止すること
正解:王政を廃止すること
国民公会は開かれるとすぐに王政を廃止し、フランスは王のいない共和政の国となった。人権宣言(新しいタブで開きます)を出したのは、1789年の国民議会(新しいタブで開きます)である。国民公会が開かれてから、総裁政府に移るまでの出来事を、起きた順に並べよう。
- ( )国王が処刑される
- ( )総裁政府が成立する
- ( )ジロンド派の主な議員が追放される
- ( )テルミドール9日のクーデタが起きる
正解:国王が処刑される → ジロンド派の主な議員が追放される → テルミドール9日のクーデタが起きる → 総裁政府が成立する
国王ルイ16世(新しいタブで開きます)が処刑される(1793年1月)→ジロンド派(新しいタブで開きます)の主な議員が追放される(1793年6月)→テルミドール9日のクーデタ(新しいタブで開きます)が起きる(1794年7月)→国民公会が解散し、総裁政府(新しいタブで開きます)が成立する(1795年)。
単元のポイント
- ジロンド派(新しいタブで開きます) 国民公会で、共和政を支持したが、民衆の要求を取り入れて革命を進めることには慎重だった議員たち。はじめは議会で優勢だったが、1793年6月に主な議員が追放された
- 山岳派(新しいタブで開きます) 国民公会で、革命をさらに進めようとした急進的な議員たち。パリの民衆と結び、ロベスピエールらが中心となった