メッテルニヒ
フクロウ先生メッテルニヒは、大国の力のつり合いと今の国境や王朝を守ることが平和につながると考えた。その考えが、なぜ多くの人々の反発を招いたのかを考えてみよう。
30秒でつかむ
- 1773年にライン地方のコブレンツで貴族の家に生まれ、若いころ、マインツでフランス革命(新しいタブで開きます)の軍隊を目にした。
- 1809年にオーストリアの外相となった。1814〜15年のウィーン会議(新しいタブで開きます)では議長として、戦争で乱れたヨーロッパの国境や王朝の立て直しを主導した。
- 自由や、民族の統一・独立を求める運動をおさえ続けたが、1848年のウィーンの三月革命(新しいタブで開きます)で失脚した。
- いつ
- 1773〜1859年(外相は1809〜1848年、宰相は1821〜1848年)
- どこ
- コブレンツ(生まれた町)、オーストリア(ウィーン)、ドイツ連邦(新しいタブで開きます)(1815年から)
- 誰
- クレメンス・フォン・メッテルニヒ(オーストリアの外相・宰相)
- 何
- ウィーン会議を主宰してウィーン体制を築き、自由主義(新しいタブで開きます)やナショナリズム(新しいタブで開きます)の運動をおさえた
詳しく
背景
クレメンス・フォン・メッテルニヒは1773年5月15日、ライン地方の町コブレンツで貴族の家に生まれた。父も外交官である。シュトラスブルクとマインツの大学で法律などを学び、マインツでフランス革命の軍隊を目にした。この体験や、フランスから逃れてきた貴族たちとの話が、革命をきらう彼の考え方を育てたとされる。1795年には、オーストリアで政府の中心をになった前の宰相カウニッツの孫娘と結婚し、高い地位につく道がひらけた。その後はザクセンやベルリンの公使をへて、1806年にパリ駐在の大使となっている。
流れ
1809年、オーストリアはナポレオン(新しいタブで開きます)との戦争に敗れた。この年の10月、メッテルニヒは外交を受けもつ外相となり、敗れた国を立て直す役を担う。彼は皇帝の娘マリ=ルイーズをナポレオンの皇后とするなど、フランスとの友好を保ちながらオーストリアの力をたくわえた。しかし1813年には対仏連合の側に加わり、ナポレオンを倒す側に回った。
1814〜15年に開かれたウィーン会議では、メッテルニヒが議長をつとめた。会議の原則は、革命の前の王朝に戻すことを重んじる正統主義と、大国の力をつり合わせる勢力均衡である。これをもとに、各地の国境や王朝が立て直された。こうして生まれた大国の協調の仕組みをウィーン体制とよぶ。1821年には宰相となり、以後30年近くその地位にあった。
メッテルニヒは、自由と憲法を求める自由主義の動きを強くおさえた。民族ごとに国をまとめたり独立したりしようとするナショナリズムの運動も、厳しく取り締まる。1819年にはカールスバートの決議で、ドイツの大学や出版を監視し、学生団体の運動を禁じる。1820年代の初めには、大国の会議で干渉を話し合った。イタリアの革命はオーストリア軍が、スペインの革命はフランス軍がおさえている。しかし、中南米(ラテンアメリカ)の植民地の独立や、オスマン帝国からのギリシアの独立の動きは止められなかった。彼は自由をおさえつける政治の代表として、民衆から強く憎まれていく。
結果
1848年、フランスで二月革命が起こり、国王が追われて臨時の革命政府ができた。その刺激も受けて、3月13日にはウィーンでも学生や市民がデモを起こし、軍隊とぶつかる。これを三月革命という。その日の夜、メッテルニヒは職を解かれた。その後、オランダを経てイギリスへ逃れている。1851年にウィーンへ帰ったが、ふたたび政治の中心に立つことはなかった。1859年6月11日、ウィーンで亡くなった。古いしくみを守ろうとする保守的な政治家であったが、革命のあとの変化を冷静に受け止める現実的な面もあったとされる。
主な出来事
- コブレンツで貴族の家に生まれる
- 前の宰相カウニッツの孫娘と結婚する
- パリ駐在の大使となる
- オーストリアの外相となる
- 対仏連合に加わる
- ウィーン会議が始まり、議長をつとめる
- ウィーン会議の議定書が結ばれる
- カールスバートの決議がドイツ連邦議会で採択される
- オーストリアの宰相となる
- ウィーンの三月革命で失脚する
- ウィーンへ帰る
- ウィーンで亡くなる
確認問題
確認問題(解答用紙)
スマホやタブレットで読み取ると、この問題をその場で解けます。
https://manazoo.com/history/metternich/?from=print#quiz
ナポレオン戦争のあと、ヨーロッパの国境や王朝を話し合うために開かれ、メッテルニヒが議長をつとめた会議はどれか。
- ◯ ベルリン会議
- ◯ パリ講和会議
- ◯ ウィーン会議
- ◯ フランクフルト国民議会
正解:ウィーン会議
メッテルニヒはウィーン会議(新しいタブで開きます)の議長をつとめた。ベルリン会議は、1878年にビスマルク(新しいタブで開きます)が議長となって開いた会議である。ウィーン会議の原則のうち、フランス革命の前の王家に戻すことを重んじる考え方を何というか。
- ◯ 勢力均衡
- ◯ 正統主義
- ◯ ナショナリズム
- ◯ 自由主義
正解:正統主義
革命の前の王朝に戻すことを重んじる考え方を正統主義という。勢力均衡は、大国どうしの力をつり合わせるという、もう一つの原則である。1819年、メッテルニヒがドイツの大学や出版を監視し、学生団体の運動を禁じた決定を何というか。
- ◯ カールスバートの決議
- ◯ ウィーン議定書
- ◯ 大陸封鎖令
- ◯ 社会主義者鎮圧法
正解:カールスバートの決議
カールスバートの決議によって、ドイツの大学や出版物は厳しく見張られ、学生団体の運動は禁止された。社会主義者鎮圧法は、1878年にビスマルクが定めた法律である。1848年、メッテルニヒが地位を失うきっかけとなった、ウィーンで起きた革命を何というか。
- ◯ 三月革命
- ◯ 二月革命
- ◯ 七月革命
- ◯ 名誉革命
正解:三月革命
自由や憲法を求める声が高まるなか、フランスの二月革命(新しいタブで開きます)にも刺激されて、1848年3月にウィーンで三月革命が起きた。これによりメッテルニヒは失脚し、イギリスへ逃れた。
単元のポイント
- ウィーン会議(新しいタブで開きます) 1814〜15年。ナポレオン戦争のあとのヨーロッパの国境や王朝のあり方を話し合った会議で、メッテルニヒが議長をつとめた
- 正統主義 フランス革命の前の正統な王朝に戻すことを重んじる考え方
- 勢力均衡 大国どうしの力をつり合わせ、一つの国だけが強くなりすぎないようにする考え方
- カールスバートの決議 1819年。ドイツの大学や出版を監視し、学生団体の運動を禁じた決定
- 三月革命(新しいタブで開きます) 1848年3月、ウィーンやベルリンで起きた革命。メッテルニヒはウィーンで失脚した